はじまりによせて

もう書きたいことなど何も無いのだと思っていた。

言葉が出てこなかった。何も文章を書かない日が何日も、何週間も、何ヶ月も続いてそれが日常になっていた。言葉が湧き出てこなかった。言葉はひっそりと沈殿したまま形をとらなかった。

それを私は、満足しているからだと、満たされているから語るべきことがないのだと思っていた。今まで一度足りともそんなことはなかったのに、焦りもせず、驚きもせず、恐怖もせず、日常に埋没しようとしていた。きっと、きっと大人になったからだ、言いたいことは十分に表現し納得したからだ、私はそう思っていた。

ことばにしない間に様々なことが起こった。自分の身にも様々な変化が起こった。環境も変わった。人間模様も変化した。それでも言葉は時々湧き上がってはすぐに沈下し、腹の下で静かに澱となって沈んでいた。


でも、あの日、すっかり疲れて座り込んだ私の前にいたのは、ことばだった。ことばはそこにいて、おかえりなさいと私に言った。どこか遠くへ行って帰ってきた時のような照れくささを持って、ことばが私を迎えた。よくしった匂いが、よく知ったあたたかさが、手になじむ柔らかさが、ずっと昔からそこにあったかのように私を迎えた。ことばは私に何も問わなかった。どこへいっていたのか、何を考えていたのか、どうして、無理をしようとしていたのか。何も問わなかった。心が破綻しても、体中が壊れても、いずれ戻ってくることを知っていたように素っ気なく、でも優しく私に手を添えた。


私のことを孤独だと友人は言う。心の中心に孤独がいて、核をなしていると。そう言われたことがある。何を考えているのかよく分からない、と私を詰った人もいた。心の壁が厚すぎると心配した人もいた。心のなかに飼い慣らしている寂しさを思って私は笑った。自分のことは自分がわかっているから、そう言われても私は笑うしかなかった。他の生き方なんて知らない。他の生き方なんて出来ない。ただ季節がめぐるように厳然として存在する事実に笑うしかなかった。


でも、あの日私は知ったのだ。私の中にはことばがいて、ことばは常にそばにいることを。どこにも行かず、何も言わず、ただ待っていることばが私の中にあることを、私は知ったのだ。ずっと昔の私はそのことを知っていた。斧田と名付けたあの頃、ことばは私とは違うものだった。私とは違う思考をし、行動規範を持ち、私の遥か彼方を飛んでいくことのできる魔法だった。いつの間にか、忘れていたのだ。ことばを操ることを、その声に耳をかたむけることを、他からの刺激に目を奪われて忘れていたのだ。そして見失った。長い8年間だった。


私は孤独ではない。だが、心の中はいつも寂しさが満ちている。寂しさが私を駆り立てる。ことばはコントロールを失いそうになる私に寄り添い、そっと手を添える。私が満ち足りていれば、また静かに腹の中に沈殿し待ち続けるだろう。そうやってずっと、生きてきたのだ。大して長い人生でもないが、それでも人生の殆どをそうやって。

今、私はまたことばの手を借りて歩き出そうとしている。今度は、どんな景色が見えるのだろう。どんな風が、ふくのだろう。ことばは何も言わない。何も教えない。ただ、私によりそうだけである。