でももし、自分のことを独りだと思ってしまっているなら、近くまで行くから、ガードレールに座りながらアニメやマンガやブンガクやロックの話をして、一緒にこの夜を生きのびよう。


死がそうであるように、夜もまた万人に訪れしかもあらゆるものを闇で覆い隠すという点でひどくあたたかくて優しいものである。僕は夜が好きだった。同時に怖かった。夜は僕が一人になり、ひどい折檻もやみ、何もかも静かになることができるから、好きだった。同時に迫ってくる得体のしれない足音にびくつき、明日の食事を心配しなければならなかったから、怖かった。それでも夜は醜さやつらさや苦しみをも飲み込んでくれる優しい時間だった。

僕の日記は小学5年生のころから残っているが、中学に上がるか上がらないかの頃から人格障害アダルトチルドレンの文字列が出てくるようになる。僕は僕なりにそれらを図書館の片隅で指でなぞりながら意味をわかろうとしていた。そうやって現実に折り合いをつけようとしていた。そうするしかなかった。薄暗く静かな、まるで夜を思い出すような図書館は僕にとって安らげる場所だったしつらい現実から逃げた先であったし、同時に社会への窓口だった。本の中にはまともな人間がいた。現実に今目の前にいる大人はだれも信用できなかったが、その中に広い世界があることを知っていたから僕は、僕が持って生まれた生命力とともに生き抜いていくことができた。それでもあのころから僕の精神はすでに壊れていたのだけれども。

父は言った。母は病気だと、言った。僕につらく当たってることが良くあったけれど、あれも病気のせいだったんだよ、と言った。父が、そう思っていたことがあったのかという衝撃と、でも何も言わなかったなこの人はといういつもの諦観と、父の弱さについて思った。母が病気というのは疑いようもなかった。いや、病気ではないかもしれない。僕は境界性人格障害ではないかと思っている。母方の祖父もおそらくそうだろう。そういう家系なのか、そうなってしまうような環境だからなのか、母方の親戚でまともに暮らしている人はいない。それでもめくらめっぽう生命力が強いがためにみな苦しみながら生きている。苦しむだけ苦しみぬいて、世界を呪いながら死んでいく家系なのだ。
対して父方の家系は体や精神が弱い人が多い。短命家系で、若くして病に倒れ、自由が利かなくなるひとばかりだ。だから父があの母に翻弄され、ただ黙って体をあちこち病み、現実から逃避しようとしては引き戻され、そうするうちに静かに精神を病んでいったとしてもやはりそれはしようがないことなのだ、と僕は思っている。

父はずいぶんと呆けた。好きだった料理ができなくなり、もともとあまり器用でなかったにせよあれこれやっていた大工仕事もうまくできなくなっている。言っていることも支離滅裂であることが増え、責められるとにやにやしながら黙り込んでしまう。もう何十年もそうやって逃避してきて、辛い時は自分の殻の中に閉じこもるのだと、辛ければ辛いほど現実世界を拒否して閉じこもって行ってしまうのだと気づいてから、僕は口を出すのはやめた。母は薬のせいでかなり大人しくなっていたので、この状態はしばらく続くだろう。閉じこもれば閉じこもるほど、ぼけたような言動に拍車がかかる。でもだからと言って放っておき続けることもできまい。いつまでこの状態が続くのかは心配の種の一つである。


僕は一昨年、壊れた精神がついに水面上に顔を出した。それは氷山の一角でしかないことを僕は自分自身でよく分かっている。心はそのずっと前から静かに朽ちていたのだ。ただ、度重なる諸々の出来事で僕がその腐った板を踏みぬいただけのことである。母方のそれと同じ姉の気質に振り回され、ことはどんどん悪い方へ傾いた。僕は活字を読む力を失い、ことばを見失い、ただ空を仰ぐ目だけを残してほとんど影も形もないほど崩れ去ってしまった。空はいつも静かで、あたたかかった。僕は朝日を美しいと思い、昼の空をいとおしく思い、夕焼けに焦がれた。ほとんど目覚めていることのない日々の中でその景色だけが光だった。
壊れた僕の精神を母は罵り、姉は詰った。父と妹たちはただ沈黙を貫き、石のように動かなかった。どこまでもそれぞれの家系の気質に貫かれている人々だ、と思いながら僕は笑った。にやにやと気持ち悪いあの笑顔で。しかしそれでも、そんな中でも、闇から抜け出そうとあがき、足を取られ、それでも生まれた時から異常に強いといわれる生命力でもって僕はあの冬を走り切ったのだ。

誰もぼくに仕方がないとは言ってくれなかった。休んでいいとは言ってくれなかった。誰のせいだとも言ってくれなかった。まるで僕が一人で病んで一人で自滅していったように静かに僕は葬られていった。たくさんのぼくが死んだ。たくさんの僕が消えた。それでも僕はまだ息をしていた。なぜだかはわからない。体は、細胞はどこまで行っても死のうとしなかった。心は死にかけているのに死にたいと叫んでいるのに、体は動かなかった。だから僕はそれを信じた。僕が僕の生命力を信じたら、そこには優しい人たちがたくさんいた。他人が、いつもぼくに光を投げかけ、道を示してくれていた。心配そうにこちらを見ていた。


僕はまだ廃墟の中を彷徨っている。でも鈍色の低い雲の隙間からは幾条もの光が漏れてきて、僕に道を指し示している。そのあたたかい手を信じて、僕はまた昇り始めるのだ。僕がいつか当たり前の幸せを手に入れることができる日まで、昇り続けるのだ。そのあたたかい手が僕に差し伸べられているから、僕は生きていくことができるのだと。そう信じて。