そろそろ「女性独特の観点から科学を」とかやめませんか

個人個人にそれぞれ固有の観点を持っているしそれが性別にどれくらい影響されているのか、ぼくらには「性別」という偏見があるから実際のところはわからない。ということを思ったりする。例えば、同じ部署の同期と僕に関して、うちの部署の人達はほぼ総じて「二人の性別を逆にしたらしっくり来る」という。要するに僕の方が男っぽくて同期は女っぽいということのようだ。そういうよくわからない「らしさ」というのに人はかなり縛られていて、でもそれはどこに依るものか、根拠はたぶんない。なんとなくそういうものだと植え付けられた観念の中にある「らしさ」で人は語る。だから性別を逆にすると、という捻くれた話になるのだ。僕は決して男らしいわけではないし、男らしさを演じているわけではない。だいたい男っぽいと称される部分に関しては特に何も考えてない部分であることの方が多い。


部長さんが笑いながら持ってきた冊子にかいてあった文章を読んでそんなことを思ったりした。そう、考えてみれば僕は親切にしてもらったから以後も親切にしてもらおうという考えをそもそも持たない。そういうのを図々しいと捉えるところがある。だから下心か初対面ではそうするものだと思って荷物を持ってあげたり親切にしてあげたら、その後もそれを期待されて不満に思っている男性に愚痴をこぼされたりするのだ。そしてその愚痴を僕は内面化して人を頼れなくなったりしている。物事はそうやって回りまわっていくのだろう。そうやって僕「らしさ」ができて、ひとはそれを男らしいといったりする。


手が入らないというから細い隙間のネジをかわりに閉めてあげるように、背が届かないから高いところにあるものをとってもらう。できないことを頼む、できることは自分でする。それだけのシンプルなことなのになぜそこに性別が絡んでくるのか。そのせいで物事をややこしく見えにくいものにしてしまうのか。「女性独特の観点から」という言葉にはシンプルなものを複雑にしてしまう気配を感じるから僕は警戒する。そしてその考え方は誰かの善意を踏み台にしていることをなんとなく嗅ぎとって敬遠する。あなたにその愚痴をいう人の渋い顔が見えますか、あなたに嫌な顔をする人がみている世界と手にしている光が見えますか。あなたは気づきますか、その繊細な心に、優しさに。あなたが踏みにじったそれらについて。