そんなおかしいこと書いていたわけでもなかったんだな。書き方があれだけど。徹底的にいっぱいいっぱいでやってるとつぶれるよ、あそびがないとってことばっかりかいてる。

■[社会][人間関係]そろそろしつこいかもしれないが

いくつか言及元を見てたりとかしつつ思ったんだが、私は個人的にはきっちり分担を決めるのは好きじゃないんだな。何事においても。なんでかっていうと、やろうと思ってたことに追加で何か頼まれたときに、相当無理でない限り引き受けるわけだけど、そうするとやろうと思ってたことに対するエネルギーを新しく追加されたことともともとやらなきゃいけなかったことに二等分してしまうんだ。私は。だから仕事の質が半分になる。最初っからプラスアルファでやるつもりだったらそんなことはないんだけど、後から頼まれるとそうなっちゃうんだよなぁ。あと押し付けがましくなる。「やってあげたんだから」と思う。たいした仕事やってないのにね。注入したエネルギーは変わらないのに、なんだかいっぱい仕事をした気になってしまう。そういう自分は好きじゃない。


思うにきっちりきっちり何事も決めるよりは遊びを残しておいたほうが物事はうまく回る。それだけ余分に最初からエネルギーを見積もっておけば不測の事態が起きたときに対処することができる。きっちりと最初から定めてその分だけやるつもりだと、後から増えた分は負担に感じるし、負担に感じるといらいらする。やることが雑になる。出来上がりの質が悪くなる。と、私は思ってる。



ずっと前にもたぶん書いてるけど、悪いほう悪いほうに考えておいたり、つらいほうつらいほうに予想しておくと、実際にやってみたときに案外そんなに大変じゃなかったりつらくなかったりとかするものだ。できれば自分の気持ちはプラス方向で保っていたい。そのほうが楽しいから。そのほうが楽だから。そのほうが生きやすいから。

あと思うんだけど、完全な平等なんてできないんじゃないかな。そういう風に思う。完全は求めない。自分ができないなら相手もできない。相手ができないなら自分もできない。完璧なんて無理。相手を完全に同定できるわけないんだから、完全にお互いの思うとおりにはならない。だから遊びを残しておきたい。そうやって余裕を持ちながら生活するのも知恵じゃないかなぁ、と思う。


1.

私は長い間理不尽に感じたことをいっていいと知らなかった。理不尽に感じるのは自分が間違っているからだと思っていた。インターネットをやるようになって、プロではない人の文章を読むようになって、その理不尽な感情は持っていてもいいんだということを私は知った。現実に表明するかどうかは別として、理不尽な感情を抱くことは大いにあるし、それは別に間違ってなんかないし、理不尽な感情を抱くからといって人間的に欠陥があるわけではないと知った。
それでどれだけ安心したか、伝えることは難しいだろう。わかる人にはわかる、わからない人にはわからない。そういうものだ。それでもわかろうとしない人に対していらっとはするし、わかろうとしないことを当然としてさらに威圧的になる人には腹を立てるのだけれども。わからないならわからないでいいけど、開き直るのはやめてくれないか。なにか感じたならそこからいろいろ考えればいいじゃないか、それを起点にして。


2.

私もいずれは親になる可能性がある。産めるのかどうかという問題はさておき、可能性としてはゼロではない。そして子供と接する時間もおそらく多いはずだ。「母親」として見られることになるだろう。「母親」になるということはどういうことか、いろいろ考える。不安のほうが大きい。よくない話もたくさん聞く。いい話もたくさん聞く。それらを聞きながら自分がどうなるのか不安になる。もしかしたら私も子供を批判し殴り笑いものにし皮肉にさらすかもしれない。もしそうなってしまったらどうしよう、そういう不安のほうが大きい。私もそうなるかもしれない、なりたくはないけどなるかもしれない。なってしまったらどうしよう。同時に私は正しさを証明するために誰かを傷つけるかもしれない。「〜から…」というかもしれない。どんな場合においてもしないとは言い切れない。私にとって過去から未来までずっと切り離せない話なのだ。


少しでも愛されなかったら人間として欠けている、といわれたら苦しい。それを埋めることは一生できないと宣告されたら生きていくのはつらい。いつでもいつまでも自分を責めねばならないのは悲しい。
一方で少しでも愛せなかったら人間として持つべきものを欠けさせてしまうかもしれない、と考えるのは怖い。少しの失敗も許されないのは疲れる。いつでも不安にさいなまれているのは苦しい。


できるものなら、少しくらいうまくいかなくても少しくらいうまく生きていけなくても、つらくないほうがいいのではないか。過去のあやまちは時間と共に薄れて、そして変わっていける可能性があるほうがよいのではないか。人はいつでもかわれる、間違いはいつでも挽回できる、そういう希望を持ちたい。多少の欠点があろうとも、生きていていいんだと思いたい。多少の間違いを犯しても絶望する必要はないんだと信じたい。私はそういう言葉を聞きたいし言いたい。そう思う。