尺の足りない部屋

もう狭い部屋に住めない、と彼は言った。僕は大きく頷いて物が散らからないですもんねぇと言った。そうなんだよ、と彼は答え、広い方がなぜか物が片付くんだよねと僕の言葉を補足する。一口ステーキひとつ。え?なに?野菜なんか食べたいの?仕方ないなぁじゃぁおしんこの盛り合わせ。何これ高い。

たいして物を持ってないくせにと僕は心の中で思う。いつか結婚するかもしれないからという期待をしっかりと握りしめて、何か買うたびにためらう彼のことを考える。広い部屋に住んでるけど、大きな冷蔵庫を変えないとこぼした彼の横顔を思い出す。
だって、もしこれから結婚とかして住むところを変えて、ほしくなる冷蔵庫があるかもしれないし、これがほしいっていわれるかもしれないし、そういうときにまだ使えるのを捨てるのはもったいない。でも今のキッチンだと冷蔵庫の大きさが中途半端でちょっと…。
ぼそぼそとしゃべって彼は笑った。困ったような自嘲気味の笑顔を浮かべる彼の背中に、午後の光が斜めに影を落としていた。
食器とか、食器棚とかもそうだけど、昔買ったのを捨てられないし、部屋に合うものを買おうと思うけどこれからのことを考えるともったいなくて買えない。
僕はちょっとだけ口角をあげて、その言葉に答えた。こないだうちの姉が結婚したんですけど、三人で住んでたときに使ってた食器棚とか全部捨てたみたいです。まぁ安い奴だったし、そんなに容量もなかったんだけどやっぱ結婚すると買いなおすもんなんですかねぇ。
僕は彼が何と答えるか多分ほとんどわかっていたし、それを期待した。思った通り彼はちょっと意外そうな顔をしてそうじゃない?と言った。住むところ変わるし、二人分の物を収納するし、それに相手の好みもあるし。おれが選ぶやつってたいしたものじゃないからなぁ。

広い部屋の中で、何か足りないとかもう少しこうだったらと思うたびにあいまいな輪郭しか持たない未来に対してためらう姿を思う。いつか、捨てるかもしれないし、必要なくなるかもしれないし、とつぶやく姿を思い浮かべる。僕はその気持はよくわかるし、世の中にはそうでない人がいることもよくわかる。必要だったら買って、必要なくなったら捨てるというとてもシンプルな考え方の人がいることを知っている。買ったものは致命的に使えなくなるまで使い続ける人がいることも知っている。そして彼のように、まだはっきりとした姿を持たないどこかのだれかのことを思いやることと、自分の主義とのぶつかりが想像できるときに、誰かのことの方を優先してしまう人がいることも知っている。あなたは優しい。とても優しい。でも時々は。僕は少し悲しくなりながら思う。自分がほしいと思うものや好きだと思うものを得ることをためらわなくてもいいんじゃないかな。いつかは今じゃないんだから、もう少し今の方を大事にしてあげてもいいんじゃないかな。自分のことを思いやってあげてもいいんじゃないかな。
でもきっとそれは僕が僕自身に向けて言い聞かせてる言葉でもあるんだろう。いつだってそう言い聞かせてからじゃないとほしいと思うものが買えない僕自身に。僕の場合は優しさじゃなくて、嫌われたくないという恐れがそうさせるだけなんだけれども。そうわかっていたから僕はそうかぁとだけ答えたのだ。

ちょうどやってきた一口ステーキに箸を伸ばしながら、彼は僕の分も食べてよいかと聞いた。僕はお好きにどうぞと答えて瓜の浅漬けを口に放り込んだ。狭いから片付かないんだよなーと独りごちる僕に彼はちょっとだけ顔をあげて、それはどうかなと笑った。僕はその顔を見ずに肉ばっかり食ってるとメタボ検診引っかかりますよと応えた。しゃりしゃりとさわやかな音を立てる瓜の浅漬けは少しだけしょっぱかった。