ぴったりの笑顔

彼女は鏡をのぞきこんでいた。僕に気づくといつもの声でおつかれぇと言う。きれいな長い少し茶色がかった髪の毛をくるくると指にまきつける。感じのいい笑顔、人当たりのいい言葉、女の子らしいしぐさにほっそりとした体形。僕は彼女をとても好ましく思っている。彼女が僕をどう思っているのか僕にはわからない。僕は彼女みたいなきらきらとしたひととどうやって話したらいいのかよくわからない。
お疲れーと僕も答える。珍しく彼女がねぇねぇと話を続ける。ん?と僕は首をかしげる。
夏休みとる?と彼女は聞いた。僕はどうかなーわかんないと答えた。このプロジェクトが終わったらセミナーの準備があるし、盆過ぎに勉強会もあるし、休む暇あるかなぁ。そうなの?大変だね。あたしね。
久しぶりに彼女はにこにこしている。女の子らしい容姿の割にたまに語尾が体育会系ぽくなることを僕は知っている。でも彼女は、職場の男性には絶対にそれを見せない。僕はそういうところをとても好ましく思っている。
来週から夏休みとるんだー。え!ほんと?うん、ちょっと海外旅行いってくる。わぁいいなぁ。この時期だったらまだすいてるしねぇ。そう!そうなの!飛行機もちょう安いしさぁ。びっくりしちゃった。そうなんだ。うわーいいなあ。私も休みたいよ。休んだ方がいいよお。リフレッシュしないと。
けらけらと彼女は明るく笑う。フロアでは見ない自然な笑顔に、きっと彼女は小さいころからこうやって笑っていたんだろうな、と僕は思う。
半年前の彼女は、見るからにやつれて、生きているのがつらそうだった。失意のどん底にいたことをあとで聞かされて、僕は憤慨したけど、あまりうまい言葉をかけられた気はしない。いつもきれいにお化粧をして、髪の毛もよく手入れして、よく似合うぴかぴかの服を着て、しゃんと立っている彼女はなんだかとても強く見えて、僕は何も言えなかった。いつだったかの僕が起き上がれない日があったように、きっと彼女も殺風景な風景を眺めているんだろうと思ったら、あの頃の僕にかける言葉がなかったように彼女に何を言えばよいかわからなくなる。あの頃の僕がどんな言葉もあまりよくわからなかったように、彼女にも届かないんだろうかと考えあぐねてしまう。
きっとリフレッシュしたらおなか痛いのもおさまるよぉ。彼女がぴらぴらと手を振って言う。僕はえー、という。でも私いつもおなか痛いからなぁ。それストレスだって。くすくす笑い。僕はとても彼女を好ましく思う。


女性がほとんどいない職場だから、フロアの中で女の人の声がするとすぐにわかる。彼女の笑い声が聞こえる。聞きなれた笑い声が聞こえる。感じのいい笑顔を浮かべて、その笑顔にぴったり合うような声を上げる彼女を思い浮かべることができる。彼女は。僕は時々思う。どうしてそんなに武装しているんだろう。武装していないあなたでも傷つけないようにしようとする人がほとんどなのに。あなたを傷つけたのはたった一人で、ただ単にそいつがひどい奴だったってだけなのに。いつかの彼女の声がよみがえる。わかってるんだ。本当は。ドラマみたいな出会いなんかなくて、旅行にいったってなんとなく帰ってきちゃうだけなんだって。かっこいい人となんて出会えないんだって。でもつい、かっこいい人いないかなぁって探しちゃうんだ。僕は無邪気に答えるんだ。大丈夫だよ、だってきれいだもん。彼女はちょっと笑う。
彼女は多分「彼女」を演じずにはいられないんだろう。だから彼女はきらきらしている。

どうなんだろう。僕はちょっとだけ目を伏せる。そうやって感じのいい女性を演じていない彼女のほうがずっと素敵なのにな。