削りたくない

彼女はよく表情が変わる人だった。驚くほど自分の感情を隠さないところが、子供っぽくもあったし、思春期特有の魅力でもあった。目はいつも落ち着きなく動き、指がいらいらとケータイの上を行き過ぎては戻ってくる。
「もうちょうむかつくんだけど」
今、彼女は不機嫌だ。顔を見ればわかるけれどそれをそのまま口に出すところを僕はとても好ましく思って苦笑いする。
「なにが」
「聞いてよ、まじありえないんだけど、ほんとしね」
「なに」
いらいらと彼女はケータイを開けてすぐに閉じた。ぱこという軽い無機質な音がする。長めの爪で背面ディスプレイを叩きながら、彼女はこちらを見ずに言った。不愉快なカチカチという音がする。
「ちょううざいの、さくぶんかけとかさぁ、ゆってくんの」
さくぶん、が作文を指しているとわかるまで少し時間が必要だった。僕はうん、とだけうなずいて、話を促す。
「ちょうやりたくねーじゃん?だからずーっと無視ってたんだけどさぁ、書くまで帰さないとかいうからさぁ、親呼ぶとかいうんだよ?まじありえなくね?あいつまた泣くしめんどくせーじゃん」
そりゃぁないねぇと僕は相槌を打って、なんで宿題で親が呼ばれるんだと笑った。彼女は小首をかしげて、さぁ、頭悪い?んじゃん?という。僕は思わずふきだす。
「だからさーうざいしさーかいたわけ。かいたわけよ。あたしがだよ?そしたら短いとかいうんだよ、あたしちゃんと書いたのにさ!」
「そりゃうっさいね、何の作文?」
「んーわかんない。なんかとりあえずかけ、みたいな。んでー」
机にだらしなくもたれかかって、彼女はまたケータイを開く。ディスプレイには何も変化がない。彼女はいらいらとけーたいを閉じる。そして背面ディスプレイを爪でたたく。さっきからこの繰り返しだ。
「しょーがないからさー、かいたのー。一行でいいじゃんねー。でも3枚書けとかいうからさー、まじ大変だったんだよ」
よくネタがあったね、と僕は素直に感嘆して言った。うん、と彼女は机に顎をのせたままの恰好でうなずく。
「てきとうに?すげぇつかれた。ちょうきもい」
きもくはないでしょうと僕は笑う。きもいよと彼女はふくれっ面で答える。原稿用紙三枚だよ?三枚もかくんだよ?あたしまじきもいことばっかりかいてるほんとしにたい。ありえない。
「いいんじゃないかなぁ、別に」
彼女はようやくこっちを向いた。濁りのないまっすぐな目でこちらを見る。ふてくされて唇をとがらせている。
「いいの、きもいの。ほんと。
んでさーていしゅつしたらさー、これほんとまじうけるんだけど、担任喜んでんの!ありえないよね!」
「なんでよろこんでんだ、そりゃありえない」
「ありえないっしょ?ほんとあいつしね」
「いや、別に死ななくてもいいんじゃない」
「でさー」
「なにまだあるの」
「あんのーちょうむかつくのがあんのーほんとありえないからきいてよ、ちょっとさぁ」
なになに、きくきく、と僕は答える。あのねーと彼女はだるそうに答える。その唇がてらりと光る。強めに引いたアイラインの下の目の光が一瞬鋭くなる。僕は彼女の頭の回転の速さをよく知っていて、そういう顔をするときの表情をとても良いと思う。
「添削してかえしやがってさーまじむかつく。みてよ!あ、そうだみてよ!これだよこれ!」
見てよと言ってから彼女はカバンの中をまさぐって、ぐしゃぐしゃになったプリント類をどさっと出した。せわしなく指を動かしてその中の一枚を引き出す。僕はそのまったく整理されていない紙の束に苦笑する。
「これ、ちょうむかつかね?」
見せられた原稿用紙には赤線がいくつも引いてあった。単純な誤字の訂正がまず目に付く。句点のつけ方、削ったほうがよい部分、書き方の指導。僕もこういう添削は苦手だった。自分自身の腕や指を鋭いナイフで薄く薄く皮をはぎ取られていくような気がするから、とても苦手だった。言いたいことはそういうことじゃない、あなたは全然わかってない。そういいたくなることが何度もあって、そうやって僕は大人になり、大人になってからはまず最初にフォーマットを探すようになってしまった。誰かに皮膚を削り取られるよりは、皮膚をさらさずにいたほうがよいと覚えたのだ。
「こことか」
彼女が長い、きれいにネイルを塗ってある爪で原稿用紙の一部を指す。僕はため息をついた。言葉が出なかった。この部分はこう考えるべきである、という趣旨のことがそこには書いてあった。ひでぇと僕は声を漏らした。
「でしょ?でしょっ?ちょうむかつくよね?ありえないよね?ほんとしねばいいのに!人が一生懸命書いてるのにお前何様だよって感じじゃね?ほんとありえないししかもなんで消してんだよ、いみわかんねーし、なんで削んなきゃいけないんだっつーの!」
早口に、しかし同意を得られたことがよほどうれしかったのか彼女はまくし立てた。ぼくはうんうんとうなずいた。
「別に削らなくてもいいと思うなぁ」
だよねだよねと彼女はまるで犬のような顔をしていう。きらきらと目が輝く。
「ここ大事な部分?」
え、と彼女は口ごもった。うーん、と首をかしげわかんなーいと答える。彼女は狭いところに押し込められるのが嫌いだ。こうしろと型にはめられるのが嫌いだ。束縛されるのが嫌いで、自分自身を削り取られることに対する痛みに対していつも怒っている。でも時々、面倒になったり考えたくない時はうまいこと定型句を使う。傷つきたくない時は、誰かの真似をする。自分を削り取らず、相手に見放されて勝手にしろと言われるために、そういうポーズをとる。僕はそのことを知っている。
「まぁこういうこと書く奴はほっときゃいいんだけど」
そうだよね!と彼女はまたいつもの調子に戻って嬉しそうに言った。自分が不快だと思うものは決して受け取らない。心地よいと思うものだけほしがる。そういうところがとても子供っぽくて、不安定で、危なっかしくて、僕はいつも彼女のことを心配している。
「ほんとうざいし!あーまじむかついてきたありえないしね!」
「冷静にさぁ、自分で読み返してみて、ここいらないと思う?それともいると思う?」
彼女の言葉には答えず、僕は訊いた。え、と彼女は不思議そうに首をかしげる。この質問は快でも不快でもなかったようだと僕は思う。
「えーよむの?」
「なんかちょっと聞いてみたいだけなんだけど、今読んでみた感想で」
ケータイに伸ばしかけていた手が止まる。彼女は上目づかいでこちらを見てから原稿用紙を恐る恐る受け取った。黒目がちの目が何を期待されているのかと不安そうに揺れる。
「……わかんねーし」
「削りたいか、削りたくないか」
彼女はしばらく黙って考えていた。じっと僕を見て、原稿用紙に時々目を落とす。
「……削りたくない、かな」
本心で彼女がどう思っているのか、僕は知らない。僕が望む答えを彼女が言おうとしているだけなことは知っているから、僕はその答え自体はどうでもよかった。でも、彼女が自由を欲していてそうありたいと願うくせに、誰かの望む答えに敏感すぎていつも傷ついていることが気にかかっていただけだ。誰かの望む答えなんか気にする必要はない、と僕はどうやって伝えられるのかよくわからなかった。
「だったら必要なんだよ」
彼女のケータイが震える。メールが来たようだ。でも、彼女は僕を見ていた。そのまっすぐな瞳でこちらを見ていた。おそらくは、僕よりも世界を見抜ける視力を持つ彼女が僕をまっすぐに見据えている。透明で濁りのない瞳が僕の真意を量っている。何が望まれているのか考えている。それが自分にとって心地よいものかそうでないのか、彼女はまだわからずにいる。
でも、と僕は思う。考えるのは自由なんだ、誰かが期待するものを期待するように渡す必要なんてないんだ。自分の心を捻じ曲げたくないなら、捻じ曲げなくていい。自分が書きたいなら書けばいい。書きたくないなら書かなければいい。それでも誰かが傷つけに来るなら、そこに何かを期待されるなら、傷つけられないように守ればいい。どこまでも自分の意志で、自分がそうしたいと思ったなら、そうすればいい。それだけのことだよ。世界はとてもシンプルなんだ。あなたが必要だと思うなら必要だ、必要ないと思うなら不要だ。それだけなんだ。
僕は淡々という。それでいいんじゃね。彼女は答えない。