小学生の僕は四角い青い空を見ている。のっぺりとした空は濃淡がなく、空色で、ただそれだけだった。窓ガラス越しに冬の冷たい風は感じることができなかったが、廊下からはじわじわと冷気が足を伝わってよじ登ってくる。僕は時々耐えられないほどの孤独にさいなまれていた。僕は世界が嫌いだった。格好悪くて形が崩れ、色も下品な母の作った服を着るのがとてもいやだった。いやだとは言えずになんだかんだと着ないと怒り出して手がつけられなくなる母が嫌いだった。無理やり着ると僕の外見を貶めるところがとてもいやだった。みすぼらしさが隠しきれない僕を同級生たちは包み隠さず指摘したし、教師は僕のことを侮蔑していた。醜い子供は、みんなと同じでない子供は、何をしてもかまわないのだ。何をされても文句は言えないのだ。僕はほかの子供のように既製品の服に包まれて、みんなと同じだと安心していたかったのだ。臆病な僕は他人の視線に耐えられなかった。だからいつも僕は一人で隠れるように、休み時間をすごした。人のいないところへもぐりこみ、座り込んで、人の気配に耳を澄まし、本を読んでいた。誰かの気配がするとさっと別の安心できる場所へ逃げる。僕は誰の視界にも入りたくなかった。

僕の中に知らぬ間に形作られた安心や美しさの定義を母は理解しなかった。奇抜であることを好み、人と違うことを誇り、そうであることを認められないと力でねじ伏せようとする。暴力と侮蔑とに押しつぶされて僕は無言になった。いやだ、美しくないと思う感覚を押し殺し、美しいものを求めることをやめた。安心に浸ることを放棄した。ただ地味に目立たないように隠れ、地味だねと言われてもわらっているだけ。僕はそれでよかった。
それでも心が美しいものを求めることはやめない。僕の心の中にある美しさの定義が消えることはない。美しいと思うものを目の前にすると僕はただ感嘆し、美しいなぁと思う。僕は美しいものが好きだ。でも、求めることはしない。その美しさを、美しいと感じない人がいることを知っているから、僕は美しさを人に伝えることをしない。共有することをしない。ただ、美しいと思うだけだ。美しさを持つ人を遠くから眺めるだけだ。僕は、僕がそうされてきたように誰かの心の中にある美しさを、自分が持つ美しさの希求で絞め殺してしまうかもしれないと言う恐れを抱いている。その美しさを破壊してしまう自分を恐れている。理解できない自分自身を恐れている。

でも、時々、愚かしいことに僕は錯覚する。
その美しさを手に入れられるような錯覚をする。
決して僕のものにはならないのに、求めてしまう。そして手を伸ばしたところで恐れる。
触れられない。触れてはいけない。