うすはりのこころ

彼女は昔と変わらない笑顔で、もうね、あたしね、恋愛とか無理だと思うんだ、と言った。だってどうすればいいかわかんないんだもん。おしゃれしてみたりさ、化粧頑張ったり髪の毛いじったり、合コンにもいったし二人で遊びに行ったりもしたけど、でもだめなんだよ。なんでなんだろうね。どうすればいいんだろう。みんなほんとにどうやって彼氏作ってるの?いろんな人の話聞いてやってみてるけど全然できない。
暗めの照明のカウンター席で僕たちはお酒を飲んでいる。結婚式の二次会の後できらびやかな格好をして、きちっと髪の毛を結って、少しだけ崩れた化粧はもう気にせずにカウンターに肘をついて話している。かかとに引っかけたヒールの揺れに合わせて僕はうなずく。僕は彼女の「あたし」という響きがすきだ。ほとんど「あっし」に聞こえるけれど、本人はちゃんと「わたし」と言っていると言い張っている。小気味が良いしゃべり方で、よく通る声で、快活に笑う彼女が僕は好きだ。
少しだけ沈黙する。沈黙の合間を縫ってマスターが飲み物をどうするかと聞く。僕はさっぱりしたものがいいと答える。でも甘いのがいいなぁ。桃のお酒とかどうですか、わぁそれおいしそう。それ下さい。彼女はみかんぽいの、という。マスターがちょっと笑ってわかりましたという。僕らは肩を寄せ合ってちょっとわらう。とても曖昧なで抽象的な概念を誰かにそのまま伝えることはとても楽で、そしてわくわくする。
大学の人がね、と僕は言う。僕がこんなに話をするのも珍しいことで、でも彼女はその一つ一つにうんとうなずいたり、えっと驚いたりリアクションを返してくれることを僕は知っている。女の子なんだけど、その子も彼氏できたことなくて、ほしいって言ってたのね。でも合コンとかやだっていうのさ。全然知らない人と付き合うこと前提で会って、選びあうってのがやなんだって。っていうかそもそもあんまり知らない人と付き合うの嫌なんだって。私もそうだなぁと彼女は言う。なんか怖いよね。て言うかなんの話したらいいかわかんないし。でも君は話できるでしょうと僕は言う。でもわかんないよ、当たり障りのない話しかできない。その子もそんなこと言ってた。僕は話を戻す。
んでね、だからさ、じゃぁ研究室の人とか学校の人とかじゃだめなの?ってきいたのさ。友達とか、いるでしょ。男友達多いのにって。そしたらさぁ、友達から告られるのはありえないっていうの。私さぁ思わず、今私が付き合いたいなーって思ってる男の子だったと仮定したときにどうやったら付き合えるのか全然思いつかないよ!っていっちゃったよ。その子笑ってたんだけどね、ほんとその通りだって言ってた。
あー、と彼女は僕の足りない言葉を察してうなずく。なんだろうな、と僕は言う。すごく感じがいいし、話しやすいし、一緒にいて気楽なんだけど、どこから攻めるっていうのもなんだかななんだだけど、まぁとにかく付き合い方が分からない感じ。私なんてさ、すごくオーソドックスじゃん。いっぱい話せるようになって仲良くなったらOK。そんだけ。ちょっと時間かかるけど。
そうかぁ、と彼女は言った。時々言われるんだ、壁が高い感じがする。心を開いてない?っていうのかな。そんなことないんだけどそう見える?
そうかなぁと僕は答える。ちょうどお酒がやってきて、僕らは少しきゃあきゃあと言いながら一口飲んで、グラスを交換し合う。うわぁこれおいしいね、すごい桃の香りがする。うわぁほんとにみかんだ。すごい。おいしい。やばい。なんだかばかみたいに僕らは感嘆の声をあげる。本当にいいね、このお店。うん、紹介してもらったんだ。すごくお酒の好きな人に。と僕は答える。
話を戻すけど、心を開いていないというよりは何だろう。最初に付き合いたい人っていうのがいて、その人との距離をどうやって縮めるかだけを考えている感じがする。それはとっても健全なことだとおもうんだけども。
彼女はつまんだレーズンを口に持って行きながら首をかしげる。
なんとなくね、最初に人と会った時って、わーっと好きな人たちとあんま好きじゃない人たちっていう、こうグループ分けみたいのってするじゃない。付き合うとか付き合わないとか関係なく。うんうんと彼女はうなずいた。君のはなんていうかもうちょっとこまかくて、付き合いたい人、わりと好きな人、どうでもいい人、みたいな感じに分かれてる感じがする。だからここのグループの人、まぁその人が一人か二人しかいないんだけど、とどうやったら付き合えるかってかんじになってる。あぁそうそう、なんでわかるの、と彼女は言う。僕はちょっと微笑む。でもわりと好きな人グループら辺にいる人が君と付き合いたいって思ってるかもしれないよね。んで、もしかしたら君も話してて面白い人だなーって思うかもしれない。いいひとだなーとか。でも。多分そこの人が付き合いたい人グループに移動することって、ないんじゃないかなぁみたいな。
彼女はあーと大きくため息をついて、そうだ、そうなんだよと言った。なんでわかるの?付き合いたい人じゃないから、アウトオブ眼中なんだよねぇ。うわーいい人だなーとは思うけど。アウトオブ眼中って、と僕は笑う。古くね。そういや最近言わないね。僕らはひとしきり笑う。笑い声がおさまってから彼女は真顔で僕に聞く。僕はまたからからとグラスをゆすって氷の音を聴く。
斧田は、たとえば好きな人がいてまだ付き合ってないときに、いい人だなーと思う人がいたらその人を好きになれる?
わかんない、と僕は言う。好きになるときとならないときがある。どう頑張っても無理だな、と思うときに優しくしてくれる人がいても、その人のことは好きだけど、恋愛感情は抱かないってことはいっぱいある。だけど、たまに移動しちゃう人はいる。結局だめなんだけどね。それでうまくいってたら今頃私は今日の主役とかやってますですね。彼女はあははと声をあげて笑う。
桃の香りは喉を通りすぎるとすっと消えるから、僕は不思議な気持ちで一口一口ゆっくりと味わう。このお店ではいつも不思議なくらい美味しいお酒が出てくる。僕はそのお酒の名前を一つも知らないし、酔っぱらったこともない。翌日はとても幸せな気持ちで目を覚ますことができる。
なんとなく、僕の呟くような声に合わせて氷が揺れる。薄い薄い硝子。まるでプラスチックのようにも思えるほど軽く扱いやすいけれど、本当はとても繊細で少し力を込めれば壊れてしまう。僕が知りあったころから、彼女はそういう人だった。今も変わってはいない。
好きだと思ってくれるなら、その気持はありがたいし大切にしたいと思うんだよね。大切にできた試しがないんだけど、気持ちだけはいつも大切にしたいと思ってるんだ。そういうのが私の悪いところなのかもしれない。どっちつかずになっちゃう。
僕はなぜこんなことを話しているのだろうと思う。旧友との再会で舌が滑らかになっているのか、結婚式という場に対面して心が弱っているのか、美味しいお酒を飲んで警戒心が緩んでいるのか。
だめなんだよなぁ、とため息をついた僕に、そんなことないよと彼女は言った。彼女なりのフォローの仕方は昔から変わっていない。僕は心の中で呟く。
僕は、だめなんだ。でも彼女はきっとそうじゃない。ただちょっとタイミングが悪くてたどりつかないだけで、たどりついた後にどうなるかっていう可能性はまだ全く未知数だ。彼女は素直だし、人の話をよく聞くから、相手の反応に敏感に反応することができるだろう。何も見えなくなってしまう僕とは違う。僕とは違うんだ。だから、お願いだから、もう無理だなんて言わないで、あきらめたりしないで。自分で自分の心をたたき割ろうとなんてしないで。
あたし、こんな話人としたの初めてだと彼女は言った。わたしもだよ、と僕も答える。なんか昔みたいにはいかないねと顔を見合せて笑う。僕らはもう二十代後半で、友人は次から次へと結婚しているのに、いつまでも取り残されている。人生の節目節目にいつも出遅れるから、このタイミングだってもちろん遅れるのだとわかっていても、時々さびしくなる。あの時、大学生になれないんじゃないかとおびえていた僕らがいたように、だれからも必要とされないんじゃないかとため息をつく僕らがいる。
もう行こうかと言った時、時計は午前三時を過ぎていた。お会計をして店を出るときに、マスターはお休みなさいと言ってから、男性にはお手柔らかにお願いしますね、と柔らかく笑って言うから、僕らは声をたてて笑った。階段を上がってから見上げた澄んだ空をきっと僕は忘れない。