本当は傷ついてなんかない

ひょっとして疲れてる?と彼はいう。僕は食欲ないんですと答える。夏バテしたみたいで、なんか忙しかったし。
うそ、と高校生のように彼は言った。もう三十もとっくに過ぎているくせに彼は高校生のような喋り方をする。僕はどんよりとした目でかれを見上げる。
うそってそれ、忙しくなさそうだったってことですか?彼は笑う。僕はからかっただけなので何事もなかったようにモニターに目を落とす。また胃が痛いのか、と心配しているわけでも何でもなく彼は言う。そういえば誕生日には胃薬をくれると言っていたっけ、と僕は思い出す。別に胃が痛いのはいつもだからいいんですけど、それより何しに来たんですか。新しいものがあるとすぐ寄ってくるからなぁ、と僕は代わりに言う。彼はいやいや、と口を尖らせる。
しっかしほんとに次から次へと新しいものが来るよなぁ、部長さんに何かしたの?
もうすっかり慣れきった痛みに僕は胡乱気に彼を見上げ、さぁと肩を竦める。なにもしてないですけど、っていうか。そういうこと言うのって、冗談だってわかってるけど、地味に何つーかあれなんですよね、傷つく。っていうか。
慣れきった痛みでも痛いものは痛い。古い傷が呼び起こされてあの頃泣いていた僕が蘇ってくる。その憎しみや苛立や悲しみや、そういうものがつい口をついて出てきても、彼らは冗談だからといって謝罪のことばを口にしたりしない。気にする僕がつまらない奴だと言わんばかりの空気を耐えるしかなかったあの頃の記憶が淀んだ空気とともに蘇って僕の息を詰まらせる。
本当は傷ついてなんかいない。慣れているから。痛くても慣れているから、今更傷ついたりはしない。でもその言葉のせいで言動が制約され、うたぐりぶかくなってしまうことを僕は知っている。この言葉を言うべき相手は彼ではないことも僕はよく知っている。この会話を効いているであろう斜後ろの人物に向かって僕は途切れ途切れになれない言葉を紡ぐ。あなたがやっていることは、誰かの息を奪い、手足をもぎ取り、お前が女に生まれたから悪いのだと居丈高に行ってのける行為にほかならない、と僕は言ってやりたくてたまらない。おまえなんかしんでしまえ。邪推する幾多の人々に、冗談だと言って人の心を抉り取って笑うすべての人々に僕は呪詛の言葉を吐きたくてたまらない。
彼はきょとん、とした顔をしてからあわててごめんごめんといった。なんか疲れてるみたいでいらいらしてるのかも、と僕は付け足す。すいません、八つ当たりだったかな。彼は曖昧に笑う。飯はちゃんと食えよ、と兄貴風を吹かせて言うその顔に僕はちょっと笑う。ごはん、一応食べてるんですけどね。なにを?冷やし中華とか。はじめたのか。もう終わります。じゃぁラーメン食いに行こう。じゃぁの意味が分からないしラーメン食ったらさらに胃が痛くなるじゃないですか、なにいってんですか。彼は笑う。ほんとラーメン嫌いだな。僕は笑って答えない。そして彼がこれ何、といったことに対してひとつひとつ丁寧に答えようとする。


帰ろうとした僕に、まだ仕事をしていた彼は、帰るの、といった。僕が何事かと首を傾げると、ラーメンは?という。僕は笑ってなにいってんですかお疲れ様です、と踵を返した。彼の笑い声が背中に届いた。