幸せの悲しみ

日用品と調味料のストック、冷蔵庫の中身、それらの全てが僕の頭の中にリストアップされていた。僕は常にそれらをきらしたり、あるいはストックしたりし過ぎないように注意深く数を調整していた。僕の頭の中には夫々が安くなるスーパーの周期に関しての情報もインプットされていたし、それらがなくなるまでどれくらいの期間がかかるかと言うのも簡単に算出することができたから、最適な状態を常に保つには申し分なかったわけだ。多少の外乱――人数の変化とか誰かが最安値の日でもないのにストック品を買ってきてしまうとか――に対しても頑強なシステムになっていたから、夜中トイレに入ってトイレットペーパーがなくて困るというようなことは一度たりとも起きたことはない。ほんの三年か四年、僕の神経は驚くほどとがっていて、そのことに関してだけは全く狂いのない計算機のように正確に常に値をはきだし続けていた。

一人暮らしになった時に一番ほっとしたのは外乱がなくなったことだった。場所はせまくなり、ストックしておける物品の量も減ったし、同時に消費する量も格段に減ったから、僕はシステムを再構築しなければならなかった。その再構築はまだ終わっていないし、最近の僕は怠惰だから再び完璧になることはないだろう。僕はスーパーに行ってそういえばみりんを切らしていた気がするけどまだあったっけ、これは最安値だっけな、としばらく考え込んだりする。たまにはちょっと高い調味料を使ってみようかなどと考えたりする。購入のパラメータが単純化されたストックの数や消費量、値段などではなくなってきたのだ。だから僕はその複雑なパラメータを最適化することができずにいるし、それでもいいかと思う程度には経済的な余裕を持っている。

ある種の完璧さを自分自身に期待することは楽しくもあり、そして悲しくもある。完璧さを求める自分自身の心は生活を画一的なものに縛り上げ、完璧さを崩しうるあらゆる外乱の原因を忌避しようとする。その生活は楽ではあるが、でも無駄なものや過剰なもの、特異なものを受け入れることのできない狭量な世界の中で徐々に心が息できなくなってゆくのだ。
たくさん並べた紅茶の缶の中からかなり時間をかけて一つを選び、不揃いなカップの中から少し考えて一つを選び、一本しかないスプーンを何も考えずに選び取り、穏やかな午後の中で僕は紅茶を飲む。真っ青な空を横切っていく飛行機の白い腹を見上げながら僕は幸せだと思った。あぁなんて幸せなんだろう。選択ができる自由と、考える必要のない楽さと、穏やかな午後と、僕をいら立たせることのない孤独が同時に存在しているなんて、なんて幸せなんだろう。僕は悲しさのあまりため息をついて笑った。