ぴったり三回分のまばたき

彼が無表情を装いながら唇の端に笑いを乗せて向こうからやってきたから、僕も少し体をそちらへ向けて話しかけた。入社した時から彼と僕は割と気があって、なにかあればほとんど重箱の隅をつついて嫌がらせをしているような会話を楽しみながら過ごしてきたから、声をかけることにためらいの気持ちはちらりとも湧き上らない。彼はビール瓶を少し持ち上げて僕に飲む?ときいた。偉い人がいたら注いであげようと思って持ってまわってるんだけど偉い人がいないんだよね、と笑いながら言って机の上に無造作にそれを置く。僕はちょっと笑う。いつの間にか営業の人らしくなったねぇというと彼はちょっと驚いたような顔を作って、それからにやりと笑った。

それがねぇ、結構心が折れることが多いんだよ、と彼は小さな声で言った。ざわめきの中でその声は僕に最後まで届かなかったから僕は曖昧に首をかしげる。そうなんだ。うん、まぁ時々本当に心が折れる。全く聞く気がない人相手に説明してるときとか、相手が頭良すぎて何言ってるかわからないときとか、すごい疲れるし終わってからもう、ねぇ。僕はまた曖昧に笑う。

まぁそういうのって長いこと続けていけばきっとできるようになるよ、と毒にも薬にもならないことを僕は言う。プロジェクト単位で全く違う分野のことをまた新しく覚えなければいけない僕がそれを言うのはなんだかおかしかった。そしてでも、と僕は続ける。心が折れるならそれはそれでいいと思うけどね、折れてないようにふるまうのは別にいいと思うけど折れなくなったら成長できなくなると思う。

彼は三回まばたきした。それから何か言いかけて、言葉の代わりにため息に似た笑いをもらす。僕はどうしたのかとその顔を見上げる。彼の上司が彼にかけている期待の大きさをたぶん僕は彼よりずっと知っている。同期の中でも抜きんでて優秀であることをたぶん僕は彼よりもずっと正確に把握している。深刻な話も弱音を漏らす相手でもなく、たまに愚痴を言ってそこを混ぜっ返して、その会話を楽しいとお互いに思うことのできる相手だと知っている。

彼は何か言うのをやめて、その代わりにいつものアルカイックスマイルを浮かべた。そういえば斧田さんって営業にくるの?やおら何を言い出したのかと僕は眉をひそめる。あぁいう人が営業に来るのがいいって言ってた人がいるよ、まぁ某Kさんだけど。僕は苦笑して首を振る。いやいや、しゃべるの苦手だし、要求の確認でお客さんとこ行くくらいでおなかいっぱいです。彼は僕のまねをしていやいや、と笑う。どうにかなるって。営業きなよ。僕は口をとがらせて答える。いかねーし。いかねーっていうか行けねーし!彼が笑ったところで別の人が無理やり会話に割り込んでくる。僕に笑って手を振りながら、彼はざわめきの中に消えていく。