昨日くらいから妙に掛け算の話がとり立たされておりますが、少し思うところなどを。



よく考えてみれば数式と言うのは思考の流れを表すものでして、僕はそこに書かれている数式からその数式を書いた人が何を思移動したくてその一片の式を、あたかもダイイングメッセージがごとく書きなぐったのかと思慮にふけるのが常なのであります。順番が大事である、という主張は確かにもっともであり、寸分も批判されるべきではない。それは確かにその通りです。僕とて幼いころ机にかじりつきながら、難しい問題の答えを眉間にしわを寄せてためすがめつ眺め、その思考を理解しようとしたものでした。なぜ最初にこのような式が立つのか。回答者は何を考えていたのか。どのような景色を見て、その視線の先に何を見据えていたのか。自分とはかけ離れた人の思考をなぞることはひどく難儀ですし、わからないときはわからないものです。しかし、一度でもそれを理解すればぐっと眼前は開け、鮮やかな世界を手に入れることができるのです。思考の流れを書きしるすのは微塵も非難されることではありません。

しかし、僕はなぜか彼らの主張に対して大きな違和感を持って向き合わざるをえませんでした。それはなぜでしょうか。

数式は思考の流れを記述したものです。数式の書き方を一意に定めると言うことは、すなわち思考の流れすらもただ一つだけを正解とし、それ以外を認めない、と言うことに等しいのです。僕が嫌だと直感的に感じたのはそこでした。


この国は20年ほど「ゆとり教育」という教育を行ってきました。その理念は、確かにまっとうなものでした。あげられた題目はそれらしいものでした。自分の頭で考える力を養おう、思考力がつけば多少習った内容が少なくても自分で応用していくことができる。確かにその通りです。
しかし実際のところ行われたのは、先の掛け算の件のような教育でした。考える力、と書けば聞こえはよいですが、実質は思考の矯正です。ただ一つだけ正しい思考の仕方が決まっていて、それ以外は認められない。
そうなってしまったのも仕方がなかったのでしょうか。確かにテストをするにあたってはどこかで採点をしなければなりません。考える力が本当に養われたかどうかを見るためには、その考える過程をつぶさに見て、採点をしなければなりません。その考える過程を理にかなっているものであれば正解とする、であれば問題はなかったでしょうが、時間や余裕のなかった現場で、一つずつその過程を丁寧に見てやることはできませんでした。そして行われたのはどんな理にかなった思考過程であっても、誰か一人が決めた正解の思考過程以外は間違いとする、と言う教育でした。

おそろしいことです。僕らは思考を統一されてきたのです。まっすぐの道でも曲がりくねった道でも最後に目的地に着けばいいじゃないかということは全く許されなかったのです。国語などは本当にわかりやすい例です。作文をかけば、ここはこう思うべきであると指摘する教師がいました。彼らは全く正しいことをしていると信じて疑いませんでした。そして出来上がったのは判で押したようにみんな同じことを考える、匿名性の高い文章。あるいは、読解文では作者は何を考えてこの文章を書いたでしょうという問題が出され、たった一つだけ正しい答がありました。こういうことを考えたんじゃないか、いやこの時代のこの背景だったらこう考えてもいい、そういう「自分たちで考えたけど本当のことは作者しかわからないよね」という前提は共有されずあたかも天から「作者の気持ち」が与えられたかのような、そういう問題を解かなければなりませんでした。僕たちは思考をする喜びを、思考の違いという楽しみを、失ったのです。その端的な例が、まさに掛け算の順番にあたります。


その責任の所在や正しさを追求することを僕は特にしたくありません。別にゆとり教育が始まった途端にそういう教育が行われたのではなく、そのずっとずっと前から僕たちの国は自分の頭で考える人が少なかったのです。いえ、僕たちの国だけでなくほかのどの国でも自分の頭で考える人はあまりいません。常識や世間の目や宗教や王様や官僚やライフハックや、そういうものに僕らは思考を委ねて楽をして、苦しいことは紛わせ、悲しいことを忘れ、生きているのです。僕だってある面ではそうです。何もかも自分で考えるのは辛すぎるし、苦しいし、時々息が詰まる。そして何よりも孤独です。

それでも、僕は自分自身の頭を使う自由を奪われることに関しては直感的に「いやだ」と感じます。怖いのです。誰かの言葉にその通りだと心酔して、みんなが同じ方向を向いて同じことを言う、その光景を想像すると怖いのです。知らない間にそう仕向けられていると考えると慄然とするのです。


本当にこれでいいの?でも答えは違うよ、とか、なんでここバツなの?なんで間違ってるの?と聞かれるたびに僕はそこを何度も何度も読んで、書いた本人になぜそうしたのか一つずつ聞いて間違ってなんかないよ、全然間違ってないと答えてきました。でも自分が正しいことを声高に主張する必要はない。もし苦痛じゃないなら、馬鹿だなぁって思いながら言われたやり方に従えばいい。どうしても納得しなかったら、ちゃんと一緒に考えて間違ってないって確認してたくさん何重にも丸してあげるから、と言ったことを覚えています。僕は負けるなと言いたかったのです。自分の頭で考えることをやめ、誰かの思考に自分自身を委ねて危険に飛びこまされていってほしくなかった。人は自分が思っているよりずっと純真でまっすぐな目をして、何かを信じてしまうことを僕は知っているから、だからいつでも怖いのです。