犬と宇宙人のスイートポテトパイ

彼女は河川敷を散歩するのが好きだった。彼はしばしばもっと若者らしいところへ行こうよと誘ったのだが、彼女は曖昧に笑うきりだった。街中は騒がしくて、楽しいしきらきらしているけれど苦手だ、と彼女はロングセーターの袖口を伸ばしながら言う。
河川敷にはたくさんの人がいる。自転車で通り過ぎる人、土手で日向ぼっこをしながら居眠りをしている老人、吹奏楽の練習をする学生、犬の散歩をする中年、野球の練習帰りの小学生たち。彼女は近くのパン屋で買ってきたパンと、自宅で入れてきたあたたかい紅茶を土手沿いを這うように伸びる階段の隅に並べて、遭難時の予行練習、と真面目な顔で言うのだ。すぐ隣に座ろうとすると、わざわざ彼との間にパンとお茶を並べ直す。

犬ってほんと子供みたいだよね、となんの脈略もなく彼女は言った。私、子供とか育てる自信ないなあ。彼女の脈略のない話に彼は十分になれているし、そんなところも陳腐な言い方をすればいとおしく思っているから曖昧な相槌を打って果物の香りのする紅茶を口に含む。子供って他者なんだよ。完全に、得体のしれない、他者。突然やってきて、内側からおなか蹴ったりして、そして出てくる。言葉を理解しなくて、弱々しくて、何も見えてないしほとんど聞こえてなくて、なのに意思がある。宇宙人みたい。
今、犬と一緒だって言ったばかりじゃない、と彼は笑って、パン屋で彼女が絶対に食べたほうがいいと強く勧めたスイートポテトパイに手を伸ばした。焼きたての良い香りがする。甘い、サツマイモとリンゴの香りが冬の乾いた風の中で優しく空気を揺らめかせる。違うよ、と彼女は不満そうに言った。犬は子供に似てる。でも子供は宇宙人。ということは犬は宇宙人に似てるってこと?彼の言葉に答えずに彼女は寒い、と口にした。
どうやって動いているのか本当にわからない。すごく繊細なガラス細工が動いているみたいな気がする。なのに意思がある。本当に弱くて、未成熟なのに、かたくてまっすぐな芯が通ってる。それが怖いと時々思う。そういう不思議な存在を育てられる気がしない。
これは結婚したくないということだろうかと彼は訝りながら、彼女のために紅茶を注いでやる。彼女はありがとうといって白い歯を見せる。昨日美容院で染めてきたという明るめの茶色い髪の毛が夕日に透かされてほとんど金色に輝いている。でも、と彼は脈略もなく口にした。産んだら肝が据わるっていうけど。そりゃね、と彼女は少し肩をすくめてレーズンパンにかぶりつく。そりゃ自分の体が刻一刻と変化していくんだもん。覚悟もできるって話でしょ。きっとどうにかなるんだ。でもわたしは怖いとか不思議だとか言う気持ちを忘れたくない。弱い生き物が弱いだけじゃないんだってことが分からなくなってしまいたくないって、思ったりする。

パンがなくなったのをいいことに彼は水筒を両手に抱えて、パン屋のビニール袋を掌の中で丸めた。彼女はセーターの裾をまた伸ばして掌をその中にしまいこむ。
そうだとすると、と彼は紅茶を飲みほして小さく息をはく。男はいつまでたっても実感が持てないことになるけどそういうもんなのかね。彼女はちょっと笑って、さぁ、私男じゃないし、それより何考えてんの。口をとがらせている彼女に彼は少し笑う。寒いんだろ。寒くないよ。嘘をつくんじゃありません。空間を少し縮めると彼女はまた笑う。やめてよ、隣に来たらすぐ肩とか腰とかに触りたがるんだから。ばか。
彼は心の中で強い生き物も時々すごく弱くなったりするんだ、と呟く。ほんの十センチの距離さえも耐えきれないほど弱くなってしまう。不自由さに阻まれて、飛び越えられる距離すらもためらってしまう。だから。
どうしたの、と彼女は抑揚のない声で言って、彼の顔を覗き込んだ。逆光の中でその瞳は冴え冴えとしている。彼は様々な感情を飲みこんでパン、うまかった、とだけ言った。彼女は顔をぱっと輝せて、そうそう、あれ絶対食べさせなきゃと思ってたんだとなぜか誇らしげにするから、彼はまたいとおしさとさみしさに押しつぶされそうになる。