彼は社長になった。
別に特殊な人事だったわけではない。彼は専務だったしその前は子会社の社長だった。社内でも次の社長は彼だろうとみな思っていた。予定調和のごとく彼にその席は用意され、彼は唯々諾々とそれに従った。それだけの話だ。
別に何が変わるわけではない。やらねばならない仕事をただやりとげるだけだ、と彼は思っている。ただ少し自席の場所が変わるだけだ。秘書がついてスケジュールの管理をしてくれるだけだ。人前に出て矢面に立たされることが増えるだけだ。
忘年会で酔っぱらって帰ってきた彼に妻はあらはやかったわね、と言った。確かに日付をまたがずに帰ってきたのは珍しいかもしれない。今日のメンバーは気心の知れた仲だが、店を出たらさっといつの間にか消えてしまうタイプの者ばかりだった。だからあまり徘徊せずに帰ってきたのだ。
あぁそうそうと言いながら社内報を彼女に渡す。入社して以来30年以上にわたるそのすべての社内報を彼はすべて保管している。妻もそれを楽しみにしている。古い冊子のどこかには二人が結婚した時の写真が載っているはずだ。彼女は少し首をかしげ、若い顔で笑っていたような気がする。それすらも遠い昔のことのようだ。
社長になることになったとおどけて言った時、彼女はあらそうなの、となんの感動もなく言った。無理もない。生活の何が変わるわけではない。社長になったからと言っていい家に引っ越すわけでもないし、いい車に買い替えてもいいが別に興味もそれほどない。ましてや妻である彼女の生活の何かが変わるわけもなかった。思い出したらきっと社長夫人よと気取ったふりをして見せるかもしれないし、社長夫人だしといいわけをして、少し高い、彼から見ればくだらない買い物をするかもしれないが、大きく羽目をはずすような人ではない。
靴下はすぐ洗濯機に入れてよ、という彼女の声に生返事で答えながら彼はグラスに水を注いだ。何が変わるわけではない。子供の頃は、社長と言うのは何か特別な資質を持つ人がなるものだと思っていたけれども、役職などはただの人事的な都合であって、他に誰もいなかったから彼がなっただけだ。なるべくしてなったと言われていても、子供の頃から何が変わったわけでもない。若かったころと何が違うわけでもない。今でも会社には電車でいくし、妻には臭いといわれるし、女の子は苦い顔をして隣に座ってくれない。
グラスを手にして戻ってきた彼に妻が笑顔を見せた。ねぇ、となにか新しいものを発見した時の声で彼を呼びとめる。ねぇ、この社長あいさつ、前の社長の時と同じじゃない?彼は少し笑う。うん、だって俺ね、それ全く書いてないから。しっかしそれにしてもよく覚えてるなぁ。彼女は答えずに写真を見ながら眉をひそめた。何でもいいけどあなたちょっと太りすぎね。あと口が曲がりすぎてて悪いことしてそう。悪いことしてそうって言うか、ガキ大将っぽいわね。
そりゃいくらなんでも言いすぎじゃないの?お前。彼は唇の片方だけあげて笑った。