あの夏、僕は毎日新幹線に乗って客先訪問をしていたのだった。行くときと帰るとき、いつも東京駅のARINCOというロールケーキ屋の前を通り過ぎながら、僕はどんな味がするのだろうと考えていた。昼が外食ばかりという慣れない生活、直接僕が話をするわけではなくても毎日知らない人に会い、同じ人のところへは行かない。そういう毎日はじりじりと平穏を蝕んでいく。毎日決まったものを食べ、決まったところに行く生活をはずれるのは、僕には普通の人以上の負担がかかるのだった。営業部のひとたちも、さすがに毎日客先に行くのは辛いといいながら、新人である僕の教育のために、アポをとっていた、あの夏。
一つ上の先輩は、その日あまり良い感触を得られないアポばかりだった。一件はすっぽかされさえしてがっくりとうなだれていた。僕もハイヒールを履いた足が痛くて、疲れちゃいましたねという話を二人で情けない顔をしながら交わしたのだった。
私、いつもあれが気になるんです。先輩はちょっと笑って、9月末で研修終わりでしょ、最後の日に買っちゃえばいいよ、といった。俺もそうしたよ、食器だったけど。僕は笑ってはい、とだけ言った。
でも、僕がそれを買ったのは最終日ではなかった。正式配属がすんでから一週間後、金曜日の夜だった。あのときは色々と辛いことがあって、毎日泣いてばかりだった。9月の疲れがたまり、胃が痛くて、しかもまた新しい環境に変わってしまったことも心に負担をかけていた。想像していたとおり、ケーキは美味しくて、僕は泣きながらそれを食べたのだった。
あれから三年半が経った。久しぶりにその店の前で立ち止まり、僕は買ってしまおうかどうしようかを考えている。もう僕は泣いていないし、そんなに疲れてもいない。仕事は切羽詰まっていても、あの一ヶ月よりはずっと環境が整っていて生活自体は決まったとおりに動いているからだ。あの時と同じようには感じられないかなと思いながら、僕は財布の中を確かめる。