満腹中枢

 「また彼氏できたの? ホント途切れないねぇ、どうやってんの?」という不躾な言葉に、彼女はまゆをひそめた。彼女の新しい彼氏は、彼氏と言うにはよそよそしく、友だちというには馴れ馴れしい、ただそれだけの相手だ。でも面倒くさがりの彼女は、友達以上の男はみんな「彼氏」と呼ぶ。そうすれば「彼氏」も満足するし、たいていの場面で困ることはない。友達を紹介してあげると恩着せがましく言われることもないし、どうして彼氏作らないの? 寂しくないの? とこれまた不愉快な質問を受けることもない。そんな彼女を、友は「小悪魔」と呼ぶ。
 男をその気にさせるのはそれほど難しいことではないと彼女は思っているから、小悪魔という蔑称は案外気に入っているのだった。最初はほんの少し押す。相手が少しその気になったら引いて、手応えがなくなったら押す、手応えがあったら引く。それだけだ。それだけで、彼女には途切れることなく甘い怠惰が与えられる。恋の始まりみたいな感じは、相手をそれほど好きじゃなくたって楽しい、と彼女は思っている。相手がすっかり甘さに慣れてなにもくれなくなったら、次のターゲットを見つければいい。そう、彼女は思っている。


 まぁゲームみたいなもんだよねぇと僕は言った。それにこのゲームはとっても簡単だし。彼女はふてくされた顔をして頬杖をついているけれど、僕の言ったことには特に異論がないようだ。
 彼女の鼻梁はかすかに白い粉が光っている。彼女は鼻が低いといつも気にしていて、そのコンプレックスを克服するための魔法をかなり丹念に肌に塗りこんでいる。不機嫌な彼女は口をへの字に結んでさっきからずっと焼き鳥の串をいじっている。指先は控えめな色のネイルで染まっていて、よく見なければ綺麗に磨いてあると思うだけだろう。
 私はそれなりに真剣なんだよ、と彼女は長い沈黙の末、ため息とともに言った。彼氏が同時に二人も三人もいたりしない。そりゃあたりまえのことだ、と僕は呆れて答えるけれど、彼女はまた不満そうにため息をついて違うんだよ、といった。
 私にはちゃんとルールがある。相手は一人だけ、手応えがあるまで押して、手応えがあったら引く。ゲームなんかじゃない、すごく単純化したルールがあって、それを忠実に実行してるだけなんだ。ボタンを押したら餌がもらえるネズミみたいに、いつまでもおんなじことを繰り返してるだけで、特別なことをしてるわけじゃない。技能もいらない。頭だって使わない。
 油で汚れた指先をとっくりと眺め、彼女はおてふきでそれを拭う。その仕草はひどく無邪気で、男の人はきっとこういうところがたまらないんだろうな、と僕は思う。
 でもさぁ、手応え、なくなっちゃうんだ、と彼女は囁くように続けた。だんだんなくなっていくんだ。それで、気づいたら押して、押して、押し続けて、どこかに押し切っちゃう。それで、振られる。ふられるのは悲しいから、最近は手応えなくなってきたら、諦めちゃう。甘いものがないと、死んじゃうから。
 それは死活問題だ、と僕はグラスの中を覗き込みながらささやき返す。汗をかいたグラスは机に水たまりを作っていて、語るべき言葉を失った僕はそれをせわしなく拭くことしかできない。
「みんなどうしてるんだろ」
「さぁねぇ」
「斧田は?」
 僕はしばらくメニューを見つめながら考えている。てかてかと光るメニューには、他のページとは違う赤や白や黄色のカラフルなデザートが散りばめられている。ゲームみたいなもんなんでしょ、と彼女は念を押すように言う。そんなに難しくない、ゲーム、なのに斧田は彼氏がいなくても平気。甘いもの、好きなくせに。
 甘いものはこわいからねぇ。食べ過ぎると調子が悪くなって、目が見えなくなって、そのうち腐っていく。普通の、たぶんボタンを押さなくても餌がもらえるたぐいのひとたちは、満腹中枢があるけど、僕にはない。だから、少し食べたらもっと欲しくなるけど、頑張って我慢するんだよ。
 できないよ、と彼女はまたふてくされた声を出す。さっきぬぐったばかりの指でまた串を弄び始める彼女に、僕は呆れて肩をすくめる。できないし、したくない。でもしなきゃいけない。僕は解けた氷の水を飲んで静かに言う。
 僕は、僕に満腹中枢を形成させなかった醜い人々を知っている。甘いものだけを欲しがって醜く太り、それでもなお、もっともっとと叫んでいた人々を知っている。その子どもは不幸だ。なにもわからないうちから、親がわけのわからないボタンを押した時に、甘いものを返してやらなきゃいけない。甘いものを欲しがるはずの子どもが、それを親に分け与えねばならない。子どもはいつも渇望して、そして育ち、やがて僕らのような人種になる。僕らはどうすれば相手に甘いものを与えられるか、知り尽くしている。だからこれは簡単なゲームだ。頭を使わなくていい、ルールだ。でも同じようには与えられない。与えられたとしても、僕らはけっして満足はできない。たとえからだが腐って甘いものを食べれなくなっても、満足することはない。
 沈黙は安らかで、僕は透明な水たまりに指先を浸してまだ、感覚が生きていることを確かめる。彼女は串をぽんと勢いよく串立てに放り込んで、あぁと何かを振り払うように大げさなため息をつく。
 よし、と彼女は言ってメニューを取り上げた。顔はまだ少し不機嫌だけれど、この話を終わらせたがっていることを僕は言外にさとる。たいしたはなしではない。話したところでなにが変わることでもない。ただ、事実を目の前につきつけるだけのことだ。それはいかにも楽しくないし、それを知ったからといって彼女の鼻筋が通るわけでもない。
 じゃぁ、自分で甘いもの、取ってくるしかないな。甘いものがないと死んじゃう。僕はちょっと笑って余計な一言を付け足す。でも甘いものを自分に与えすぎると、いつか死ぬ。彼女はすました顔で、人はみな死ぬ、と簡潔な言葉を吐く。