良い文章を見つけるためには歩き続けなければならない

最近なぜか中国の先鋒文学作家の小説を続けざまに読んでいる。
彼らの言葉は短く、端的で、だというのになぜか非常に写実的である。理由はわからない。それが中国文化というものなのかもしれないし、先鋒文学の代表者の作品ばかり読んでいるせいかもしれない。
今日、「神戸国際大学教授−毛丹青オフィシャルブログ」を知った。

おなじ作家でも、視点が違えば、思い考えることはまったく違う。去年、作家の李鋭さんと東京から列車で仙台へ行った。車中ではずっと本を読んでいた李鋭さんだが、魯迅先生が留学のために仙台へ向かった冬の日の情景を私に話してくれた。わたしたちの列車の窓の外に広がるのは日本の晩秋であったが、枯葉がすでに落ち、トンネルに入る際に見た枯葉は、疾走する列車に煽られて地上から舞い上がる残灰のようだった。

夜までかかってようやく仙台に到着した。李鋭さんはこのことを、今年の文芸雑誌『収穫』に『焼夢』と題して発表し、このように描写している「いま思えば、仙台入りには黒夜がふさわしかった。歴史が歳月による腐蝕のせいで見る影を失おうとも、黒夜だけが色あせることなく、黒夜だけがもっとも当時の歴史の地色に適い、もっとも魯迅先生の心境に適っている。」

http://amaodq.exblog.jp/9276718/


僕はあまり中国人の知り合いはいない。大学時代の知人数人だけである。最近は全く連絡をとっていない。でもきっと元気にしていることだろうと思う。
ある程度教養のある人しか知らないので、「中国人はこうだ」ということはわからない。だいたい僕が知っているのは理系の人ばかりで、日本人でも偏りのある人種だ。ただ、ひとつ言えるのはみな、つよいということだろう。


彼らはつよい。


たとえばRさん(日本語読みしかわからない)は、お茶が好きで、帰省する度にたくさん中国茶を買ってきてくれる。僕は当時中国茶が結構好きで、花茶のように見た目が楽しいものも、白茶のような香りを楽しむものも、彼女に教えてもらったのだった。彼女は言った。大丈夫よ、毒は入ってないよ、地元の人が買うところで買ったからね。おみやげ屋じゃない。だから大丈夫。それに安かったし問題ない。お母さんもたくさん買った。僕は笑った。中国人というのはそういう人々である。

あるいはPさん(これは中国よみだ)は、おとなしい十八歳の女の子で、僕が大学に入った時の第二外国語クラスの同級生である。彼女は元々かなり無口な人で、日本語は半分くらいしかわかっていなかったが、だからなのかひたすらに沈黙を守っていた。僕が大学に入った頃はまだ表面化してはいないにせよ、その後はじまる反日デモの線上に時はあり、あまり日中関係は良好ではなかった(今も良好ではないのか?)が、彼女は少ない語彙でよく日本を褒めた。当時の僕たちはそんなものだと思っていた。まぁきっと日本に来るくらいだし、日本の事好きなんだろう、と。それくらいにしか考えていなかったのだ。

クラスには他にも留学生がいてベトナム人のグエンさんたち(数人いたがみんなグエンさんだった)や韓国人のSくん(名前の方だ)などとはあまり交流がなく、彼女がなぜ中国人同士で固まらずに日本人と行動しているのか、僕にはよくわからなかった。でもまぁそんなものなんだろうな、と当時まだ若かった僕は思っていたのだ。

その後学科ごとに僕らは別れ、彼らとは交流が殆どなくなった。代わりに韓国人のUさん(名前しか覚えてない)という人と知り合いになった。彼女は非常に優秀で、僕のいた学科を含む三学科の主席にもなったひとだ。しかもとても美人で、わりと性格のいい女の子だった。でも僕は彼女とはあまり仲良くならなかった。彼女の周りには取り巻きの男の子がいたということもあるし、僕が落ちこぼれすぎて卑屈だったということもあるが、彼女の話があまり好きでなかったというのが一番の理由だろう。
彼女はいつも言う。韓国はxxだ。でも日本はダメxxじゃないから。そういうのはダメ。彼女の日本語能力は高かったが、やはり語彙は母国語でないので豊富ではなく、しかしそれを差し引いても僕は不思議で仕方なかった。どうしてかならず話の結末が日本の否定なのだろう。彼女がダメと断定するそれは宗教観や文化の違いでしかなく、だからダメというのはまぁかれらの主観としてはしかたがないのかな、とは思えども、気分のよろしいものではない。話のオチなら自虐のほうが良い、あるいは関西人のノリツッコミなら笑える。だが、彼女のそれはあまり笑えないし、彼女も笑わせるために言っているわけではないようだった。しかも彼女は頭が良かった。頭が良いのに、なぜそんなことをするのか、僕にはわからなかった。僕は頭の良い人は当然ものごとを真正面からも斜めからも裏側からさえも見ることができるものだと思っていた。狭量な若さみなぎる価値観で。

僕は彼女の話を聞くたび、Pさんをおもった。そういえばPさんはなんで、褒めたんだろうなぁ、と。別段大したことでないことでも、彼女はいつもよいところをいった。僕はRさんのことも思い出す。彼女もそういう人だった。あるいはほとんど日本人と呼ばれていたTくんのことをおもった。彼は九歳で日本に来て、留学生枠ではなく日本人と同じ入試で大学に入ってきた人だった。もう一人三歳で日本にやってきたGくんもいたが、しかしTくんは中国人でGくんは日本人だった。些細な、ほとんど言語にしがたい違いが、彼らの間にはあり、Gくんが日本はダメだと言う時は自虐の匂いがした。でもTくんは言わなかった。RさんもPさんもTくんも、中国はダメだといった。それにはやはり自虐のにおいがする。
僕は長くその理由がわからなかった。わからないまま、心のなかにおいて、そしてすっかり忘れていた。

やがて10年の刑を受けた秦書田と妊娠中の胡玉音と別れる時がきた。ここで、秦さんは大きな声で叫んだ。「どんなことあっても生き延びよう。畜生になっても、何になっても必ず生きるんだよ!」

 この感動的なシーンは、多くの中国人の胸を打った。激動の時代を生き残った人々ならではの思いが込められていると思われる。

 『歎異抄』の第二章には、このように書いている。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。

 いわば、地獄はわれらの住み家なんだという思想も、あの激動中国にもあった。人間はどんなに追い落とされても、生きるだけはあきらめてはいけない。悪人であっても、救われる道があるから。この映画について、知人監督の謝晋(シエチン)は、こう説明している。『芙蓉鎮』は、文化大革命の時代、そしてその後と、十数年間にわたって受けた痛手をある小さいな村を通して描き出したものだ。重要な登場人物は八名、出て来る人家の戸数は数軒しかないが、この裏側に数千万の同じ苦しみを持つ人々がいると言えよう。

http://amaodq.exblog.jp/7572752/

彼らの中にひっそりと住み着いているのは、現世が地獄にもなりうるという記憶なのか。成功を叫べばそれを妬まれ、引きずり落とされるという恐怖なのか。痛みが心の奥底に揺らめいているからなのか。我々は80年台の生まれで文革は過去としてしか知らない。だが彼らの親の世代はそうではない。
いや、もともと彼らにはそういう思想があるのかもしれないとも思う。業が、前世の悪行を引き継いで現世に現れていると考えるようになったのは、仏教が中華思想に触れ、中国人に受け入れられるために変容した結果だとどこかでちらっと読んだような記憶がある。それは僕の記憶違いかもしれないが、ある程度腑に落ちたからなにもかも違うというわけではないだろう。だがいずれにせよ、彼らは生きるためには手段を選んでいてはならないことを知っており、建前を口にしながらこっそりと意思を通し、そして妬まれぬように自虐をし、艱難辛苦を笑い飛ばそうとする。絶望の淵に落ちてもなお生きていくために、笑い飛ばそうとする。それが彼らの知恵なのかもしれない。