嫌いの作法

 彼は好ましい人物ではない。尊大で遠慮がなく、ぐだぐだと訳のわからないことを言う。言ったことは覚えていないし、失敗から学習しない。僕の最も嫌うタイプの人間だ。端的に言えば、僕は彼のことが嫌いだし、積極的な関わりは避けている。
 だがそうはいっても、消極的な関わりまで避けているわけではない。同じチームとして働いている以上、大人の、ある一定の作法をもって僕は彼と関わらねばならない。彼に聞かねばならないこともあるし、彼から聞かれたらそれに答えてやらねばならない。僕はそれを苦には思わないし、彼が僕の許容範囲を踏み越えた場合も無言で身を引いて反応はしない。それが「ある一定の作法」であると僕は思っている。
 だが、イズミさんはそうではなかった。僕の五年先輩であるイズミさんも彼のことを嫌っている。あらゆるイズミさんの言動の中には彼を傷つけようとする意図が含まれている。彼のわかりにくい物言いに対して、もう少しわかりやすく言えと穏便に伝える大人の作法は、「もうちょっと整理してから報告してね」だが、イズミさんは「馬鹿か」という。「大学院まで出たくせに」という。それは率直な物言いを通り越して、人格攻撃であると僕は思っている。僕はイズミさんの言葉の一つ一つ傷つき、腹をたてる。彼のことなんて嫌いなのに、ぼくは腹を立てる。
 その日は検証テスト用環境の設定に問題が起きたことが判明し、彼はそのことについて報告した。彼は二言に一言は言い訳をはさみ、自分のせいではないと主張した。たしかにそれはそのとおりで、検証テストが何かを理解していないSEチームが勝手に設定を変えたり、機器を動かしてしまったがために問題は発生したのだった。もちろん彼らに事前にテスト期間の周知はしており、その系は触るなということは示していた。ただし、彼にはまだ検証テストが何か、なぜ系を勝手に弄ってはいけないのかと説明するだけの知識も経験もなかった。なし崩しのように彼らに相談され、はい、はいと言ってしまう。彼らは小さな変更だと思っているので、うるさくああだこうだ言われるのを嫌がって、一番なにもわかっていない彼のところへ行く。それらはすべて口頭ベースで行われ、記録が残っていない。テストチームへの報告もない。報告がないのは問題だ。
 イズミさんは言った。全然マネジメントできてないじゃないか、期日までにリリースできなかったらどうやって責任を取るの?
 だがマネジメントは彼の仕事ではない。僕はついに言った。マネジメントも責任をとるのもイズミさんの仕事でしょう。管理職なんだから。ミーティングの空気が凍りついたことはわかったが、ぼくは間違ったことを言ったわけではない。少しだけ大人の作法を捨てたことは認めよう。でも、かわいそうな奴隷に仕事を丸投げするだけでいいんだから、いいご身分ですねと言わなかったのは、ほめられてしかるべきだと思う。僕はそういうことを言いかねない人間である。
 イズミさんは多分僕のことも嫌いになっただろう。僕はそれでも構わないと思っている。僕は彼のことはあいかわらず嫌いだ。話を聞いていてうんざりするのも変わらない。彼が隣でひとりごとを言い始めるといらいらとする。でも間違ったやり方で誰かが攻撃されるのをただ黙ってみている事もやはりできない。それがたとえ嫌いな相手だったとしても、だ。