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 景色は全てが影になろうとしている。八月といっても、黄昏時の東京都心は案外さわやかな風がふいているものだ。古い欅の木が奏でる葉ずれの音を聞きながら、彼女はなんとなく座り込んでしまったベンチから立ち上がれないまま、ぼんやりとビル群を眺めていた。視界の端に、二脚のクレーンが映っている。いずれも頭を昂然と上げ、空を仰ぎ、白いランプをけだるいリズムで明滅させている。繊細な骨組みは闇と空と夜に混ざり合い、まだかろうじて残っている太陽の光が空に流れる白い雲を縁取るように輝いていた。背後に流れる日本橋川からは今日はあまり淀んだ匂いはしないようだ。時折むせ返るような潮の香が漂ってくることもあるが、幸いなことに今日は海風が弱いらしい。
 このベンチにさわやかな風がふいているのは、川のおかげかもしれない。少し歩いて東京駅の方まで行けば、空調の排気熱でむせ返るような熱風が時折肌を撫でることを彼女は知っている。
 彼女は爪を噛んだ。爪をかんでしまうのは幼い頃からの癖だった。母親にはよくやめろと言われたが、手隙になると爪をかんでしまうのである。その癖はおとなになっても治らなかった。
 認知がゆがんでる、と彼女は思った。
 爪を噛む。
 爪の味は皮膚の味と同じだ。薄皮が剥けかけているのを歯で剥ぎ飲み込むと、爪と同じ味がする。食感は魚の爪より少し硬く、だというのに喉には引っかからない。もともと自分のものだからだろうか、と彼女はいつも考える。
 ゆがんでいる、と誰にも聞きとがめられないように彼女は小さな声でつぶやいた。
 息を吐き出しながら、憎しみを体の外へ押しやろうと目を閉じる。心を鎮めねばならない。
 歪んでいる。彼女は自分自身が歪んでいると知っている。だが、それを止めることがどうしてもできないのだった。
 
 
 きっかけとなるのは些細な事だ。しかしそれは彼女の打撃を与え、認知を狂わせるのだった。彼女はその瑣末な出来事を一つ一つ憎み、忘れることなく蓄積し、そしてやがて彼らのすべての動作に敵意を覚え、嫌悪される恐怖と暴力を振るわれうる可能性に怯えるようになる。彼らは敵になる。敵は打倒すべきだ。徹底的に、起き上がってこなくなるまで叩きのめさねばならない。彼女を嫌う全て者を彼女は排除せねばならない。彼女の中に巣食う憎しみに餌をやり、満足させてやらねばならない。そのために世界を歪めることも、彼女は厭わない。厭わないと思ってしまう。彼女の臆病さが、憎しみの火を煽る。あらゆる物を壊し尽くすまで、彼女は彼らを憎み続ける。
 鞄の紐をぎゅっと握りしめて、彼女はゆっくりと頭を横に振った。
 彼女自身、この性質が通常と異なる在りようであることはすでに理解していた。学生時代も問題がなかったわけではない。だが、最初の会社で先輩社員を敵認定して徹底的に対立し、やめざるを得なくなったあたりから、ことは決定的なものとなった。
 先輩は親切なだけだった。彼の話し方はいつも回りくどく無駄ばかりで、そしていやに暑苦しく、親しげだった。彼は彼女が非常識だと思っていた。偏見に凝り固まっていると思っていた。それで彼女を諭し、新しい環境になじめるように導こうと苦心していたのだった。だが、彼女にとってその行為は猛毒でしかなかったのだった。
 彼は、彼女に規格品になれといった。にこにことわらって従順にうなずき、彼らのどうしようもないチンケなプライドを支えるのが、彼女の仕事だといった。実際のところ、彼女は総合職の正社員だったので、そんなことをする必要はなかったのだが、しかし求められている役割は彼らの中にある微妙な均衡を和らげ、あるときはそれを受け止め、体の中に貯めこんでいくことだった。多少仕事ができなくてもいい、女の子がいれば雰囲気が良くなる。その言葉が全てであり、その役割を果たすという暗黙の約束の報酬として、彼女はそこを居場所として与えられたのだ。
 だが、彼らの言い分は彼女がもっとも苦手とすることで、そのうえ彼女は猛烈に腹を立てた。愚鈍なバカのくせに、彼女は心のなかでそう毒づいて、最初の三ヶ月は怒りを押し込めて笑顔を通した。次の三ヶ月は無表情で口ごたえせずに通した。最後の三ヶ月は彼の話す言葉の些細な矛盾を一つ一つあげ、そのすべてを批判し、ミスを一から百まで全て指摘し、仕事が遅いことを批判し、彼の仕事を取り上げてやり遂げてしまった。彼は会社に来られなくなった。
 彼女はそれでもおさまらなかったが、しかしこれ以上追い詰めてはならないことも、彼女は理解していた。彼女は会社を辞めた。誰も彼女のことは引き止めなかった。彼女は異分子であり、排除されるべきだった。
 あの時と同じことがまた起ころうとしている。彼女はまだ走りだしていない。だから誰も気づいていないが、Xデーはそう遠い日ではない。
 帰ろう、と彼女は小さな声で自分に言い聞かせた。帰ろう。帰って、家の床に横たわり、死人のようにじっと目を閉じていよう。外にいると誰かを傷つけたくなる。誰かを呪いたくなる。誰かを痛めつけたくなる。だから、誰にも合わずに一人でじっと冷たい床に横たわっていよう。
 肉が腐り落ちてもそのままでいるほうがずっとましだ。善良で少し考えなしの人々を傷つけるよりは、自分自身が消えてしまうほうが本当はずっといい。
 彼女の臆病さは、彼女を生かしている。生きるために彼女は憎しみを燃料にせねばならない。だが、横たわり、眠り続け、そして動けないまでに衰弱すれば、もはや憎しみですら彼女に手を差し伸べることはなくなるだろう。そうなってしまえばいいといつも思う。でも彼女は飢餓状態にのたうちまわって、また艱難辛苦の中に戻ってしまう。
 三度目の転職で、彼女は理解ある職を得ることができた。そこにいる人々はみな率直で、暗黙のルールというものがなかった。なにもかも彼らははっきりと話し、話題に上らなかったことは存在しないことだった。もし気づいたとしても無視をしてよかった。
 この職場では、いつもにこにこと笑っている山谷という中年男性がリーダーとなってチームをまとめている。彼は良い人だ、と彼女は思っている。ときどき他愛のない世間話もできる。それに彼は甘いものが大好きだ。それで仕事が煮詰まってくるとまんじゅうと羊羹を買ってきて、彼女にくれる。彼女がそれを好きだといったからだ。そんなふうにして、彼はさまざまな人のことを記憶している。好ましいおじさんである、と彼女は彼のことを評価した。彼ら彼女を見るとにっこりと笑う。敵意がないことを示す。それだけで彼女の臆病な心は鎮まり、そこを居場所だと認識する。
 だが、彼女の認知はふたたび歪み始めている。
 きっかけはきっと担当営業だろう。彼女を含むチームが受け持っている仕事を売り込む男だ。まだそう歳はとっていない。三十代半ばくらいだろうか。声が大きく、表情が派手で、言葉には常に裏がある――と彼女は思える。定められているようにある一定水準の笑顔を作ることができ、だというのに目はちっとも笑っていない。だからだろうか、あの男は敵だ、と彼女は思った。思ってしまったのだった。
 彼の営業活動はあまりうまくいっていないようだ。今回の客は無茶なことを言う客で、営業を恫喝するのが仕事なのだ。そして値切ることが正義だと思っている。値引きをするのが商売上の誠意だろうと言う。そういう客なのだった。
 困るんですよね、どうしましょうね、と彼は言った。おお、と山谷は少し楽しそうに応じる。こりゃ、サクセンカイギが必要だな。その響きは無邪気でまるで子どものようだった。彼女は注意深く文書を読みながら、キーボードを叩いているところだったが、その声音に少し心が動いてちらりと彼を見やった。そして営業の男とも目があった。
「ほんとねぇ、この人困っちゃうでしょ。なんとか作戦とか大好きだからね、おっさんだから」
 彼女は微笑んで応えた。なんであれ微笑みを返せば大抵の人は満足する。それが彼女の数少ないふつう人間との共通言語である。
「ま、ぶっちゃけね、河西さんちょっと貸してくれたらあのおっさんも黙ると思うんすよぉ。あの親父いやらしいからね、若い女の子みたら急に態度がころっと。こうね、ころっと。しかも河西さん、美人だし手のひらの上で転がしていいよ、ね」
 彼女はまばたきをふたつした。うまく笑顔が作れているかどうか、彼女は急に不安になり、いや、と脈略もなく口にした。急速に世界の色彩が減退し、体温が下がっていくのがわかった。
 あの男は、敵だ。
 体の中から声がする。頭の中で割れんばかりの声音でそう主張するものがいる。彼女は怯えた。どくどくと音を立て始めた心臓をなだめるために、そっと手のひらを合わせた。手の内側の柔らかい皮膚はしっとりと汗ばんでいる。その皮膚に爪を突き立てたい衝動に駆られて、彼女は息を止めた。
「だめだよ、河西さんとってっちゃったらスケジュールが遅れるよ」
「いいじゃないですか、たくさん注文はいるほうが山谷さんだって嬉しいでしょ」
「でもリリースに間に合わなくなっても知らないよ」
「その責任を取るのが山谷さんの仕事でしょう」
「責任とるために、連れてったら困るって言ってるんでしょう」
 彼女はまだ怯えていた。本当は机の下に隠れて震えていたかった。でもそうするわけにはいかないことはわかっていた。代わりにふつふつと憎しみが沸き上がってきていた。なぜ憎しみが沸き上がってきたのか彼女にはわからなかった。
 あの男は、敵だ。それだけが事実だ。それに、今、リーダーを傷つけようとした。
「サポートの葉山さんじゃだめなの? あの子も詳しいでしょ。それにハキハキ喋るし。河西さん、真面目で正直だから、喋っちゃいけないことも全部喋っちゃうよ。営業向きじゃないね」
「葉山さん……」
 男は訝しげに眉をひそめた。何かを撫でるように指が空気の中を動いている。彼は少し真顔に戻ってなにか考えるように首を傾げ、それからふっと表情を緩めた。その時だけは目も笑っていて、素の表情なのだとわかった。彼女は気にしないようにキーボードを慎重に叩いて、彼らの話を頭の中から追いだそうとしていた。
「なんで? 開発が行かなきゃいけない理由があるの? なんか要望があるかも、とか?」
「いやぁ、葉山さんって……葉山さんだとねぇ、あのおじさん転がせないでしょう」
 ぴしり、と世界が軋んだ音を立てたのがわかった。彼女はそうっと彼に見とがめられないように頬を撫で、表情が動かないように魔法をかけた。彼の言外の言葉が胸に突き刺さり、生ぬるい血が吹き出してきたことがわかる。
 彼は、評価を下した。
 誰にも、どうしようもない、美醜の評価を彼はやすやすと口にした。
 それは彼が敵だからだ。彼女の敵だからだ。馬脚を現したのだ。そう、彼女は思った。それは確信だった。
「そう? しっかりしてるし大丈夫だと思うけどなぁ」
「そういうことじゃないんです。ねぇ、河西さん、一緒にお客さんとこ行こうよぉ、そんでおわったらぱぁっとおいしいものでも食べに行こうよ」
「僕も連れてってよ」
「なぁんで山谷さん連れてかなきゃいけないのよ。またビール飲んで寝ちゃうんでしょ、困るんだから――」
 歪んでいる。指がいつの間にかその文字を綴っていて、慌てて彼女はプラスチックのキーを連打した。世界の輪郭がうまくつかめなくなっていた。


 あれ? 河西さん? という声が不意に右斜め前から聞こえて、彼女は我に返った。我に返ると同時に噛んでいた爪を喉の奥に流しこみ、そっと指を手のひらの中にしまう。顔の筋肉が自動的に動いて、笑みを作る。
 近づいてきたのは山谷だった。重そうなお腹を支え、両手を開いて立っている姿はユーモラスだ。白いシャツがぼんやりと夜の中に滲んでいる。彼はせかせかときぐるみ人形のような動きで歩いてきて、具合悪いの? と朗らかな声で尋ねた。呑気な口調だ。白い歯が残照の中に浮いている。
 はぁ、と彼女は曖昧に微笑んで頭を下げた。そして、でも大丈夫です、と続ける。貧血みたいな感じですけど、ちょっと座ってたら治ります。今日は風が気持ちいいし。
 おお、確かに今日は気持ちいい、でも貧血は大変だ、と山谷は大げさに腕を動かした。彼が少し動くたびにばたばたとビジネスバッグが大げさにはね、彼の左手の薬指に嵌っている簡素な結婚指輪が鈍い光を放つ。その光を持つ人はたいてい敵ではない。彼女には興味がないし、害をなさない。だから敵ではない。
 じゃぁ、おじさんがチョコレートをあげよう、と彼はおどけた口調で続けた。そう言っている間にもカバンをあけ、ごそごそと中を探り始める。彼女は笑った。好ましいおじさんの魔法のカバン。なんでも出てくる。そんなフレーズを頭のなかで唱えると、少し視界のぐらつきが収まったような気がする。
「大丈夫ですよ」
「そう? 河西さん、主戦力なんだからいないと困るんだよ。気をつけてよ。あと全然休憩取ってないでしょ、そういうの良くないよ。若い時は走れるかもしんないけど、こんなおじさんみたいに適当に適当にやってたって放り出されないんだから」
 けらけらと彼は明るい声で笑って、はい、とチョコレートを一粒差し出した。その声につられて彼女も笑った。

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締りが悪いのでそのうち書きなおす