Stare at me


 あぁ、そういえば斧田、あれどうなったの? 通ったって言ってたやつ、と彼女は彼女の話をすべて終えてからついでのように言った。
 僕は電話は好きではない。だから電話をかけてくるのはいつも彼女で、だいたい彼女の話だけで終わる。僕はそれでいいと思っている。話をしたいからかけてきているのだ。それで僕のほうが話していたとしたら、何かがおかしい。
 他愛のない報告、友人の近況、何度か聞いた仕事の話と軽い愚痴と、自虐。もう三十になるんだねぇ、と彼女は言う。僕はまだ二十九になったばっかりでしょと笑う。それに三十になったってなんにも変わんないよ。十の位を切り上げたら百なんだから。
 彼女は笑った。電話の向こうの笑い声を僕はあまり認識できない。
 いつまでも夢を追ってるわけには行かないよねぇ。お金にならないと、と笑い声の終わりあたりで彼女は付け加える。声は少しかすれていて、疲れが含まれている。でもそんな声を出したって、彼女はたぶん電話を切ればすっきりとしてまた明日へ向かって歩き出すだろう。僕はそうとよく知っているのだった。だから相槌をうたなかった。たとえお金がなくても無職でも、仕事が嫌になれば彼女はやめる。やりたくないことからは逃げるし、あまり自分を殺すことはない。そうやって二十代を乗り越えた彼女はきっとこれからもそうするだろう。
 沈黙を埋めるように彼女はまた誰かの話をしている。僕は紙にぐるぐると丸をかいている。不器用な丸がいくつも連なっていて、さくらの花びらのようだ。そう思ったところで彼女の声が飛び込んできて、僕は我に返った。
 あれ、どうなったの? 僕は一呼吸おいて、だめだったと努めて軽く言った。最終までは残んなかった。まぁわかってたことだよ。一つ進んだだけでも収穫だし、自分の悪いところもわかってる。地道に続けるよ。生活はできてるから。
 でも、その言葉が建前であることくらい、僕はなによりもわかっているのだった。
 僕は、決して平坦な道を歩いてきたわけではなかった。幾度も挫折して、時には方向を変え、目標を変え、走ってきたのが僕だ。そんな僕でも、だめだと直戴にいわれるのは存外に堪える。繰り返される駄目出しに精神は削られていく。時にざっくりと、時にうっすらと、心は抉り取られていくのだった。
 へぇ、そうなんだ。まぁがんばってね、と彼女は心のこもっていない相槌を打った。僕はすこしわらって、うんとだけ答える。うん、がんばる。じゃぁね、おやすみ、と君のあくび混じりの声が聞こえて、僕はまた笑う。薄情な友人、自分の話したいことを話すだけ。もうだめだと言いながら、いつも甘えられる腕を確保している。最後には頼るべき相手がいる。僕はそう知っている。この電話を切った後だって彼女はきっと誰かにもたれかかるだろう。その腕はきっとあたたかく君を包むだろう。
 僕には生活を維持する術が備わっている。でも、彼女のように甘える腕を確保する術はもたない。削り取られていく精神を埋めてくれるものを、僕はどうしても得ることができない。みんなどうしてあんなに簡単に、少し悩んで、少し苦しんで、軽々と獲得していくことができるのだろうと、僕はいつも思う。それとも、彼らも本当は水面下でもがいているのだろうか。水鳥のように、必死で足を動かしているのだろうか。あるいはそれは、普通に育てばいつの間にか身につける類の技術なのだろうか。例えば微笑みのような、例えば熱っぽい視線のような。
 ほんとうは。
 本当は、いっぱい泣いた。最初は泣けなくて、しばらくしてから声を上げて泣いた。本当だよ。悔しくないわけないでしょう。
 言いかけた言葉をすんでのところで舌先が歯の奥に押しやって、僕はしかたなくおやすみ、と言った。ぐにゃぐにゃと連なる黒いさくらの模様の上に散ったしずくの音は、たぶん彼女には気づかれていないはずだ。