明治と写真と戦争 -3

前回ターニングポイントの話をしたところだが、一飛に日露戦争には行きません。今回は西南戦争の話。

西南戦争とは

西南戦争は明治十年(1877)の2月から9月の間に起こった薩摩藩士の反乱。日本最後の内戦のことです。で、俺はよく知らなかったけど、この戦争は西郷どんが征韓論に反対されて引き起こし、最後自決して集結した。攘夷をするかしないかみたいな話が武力的に決着がついたのが西南戦争って感じなのかな。このあとは国会設立に向けて言論(つってもなんか色々やってたので平和的ではないが)戦争が続き、ようやく選挙が開始したら、今度は日清戦争、そして日露戦争と続いていく。元気だなー。

さて、この日本最後の内戦は、日本で最初に光景を写真に収めた戦争でもある。写真師は二人で、上野彦馬と冨重利平。
特に上野彦馬というひとは、日本で最初に写真師になった人で、日本写真の開祖らしい。長崎で化学を学んでるうちに写真も習得したらしい。当時の写真は湿板だったので、化学の知識が必須だったんですね!ほいで、冨重利平は、この上野彦馬に写真術を学んで写真館を開いた人です。上野さんはどちらかと言うと医者もしくは化学技術者だったのに対し、冨重さんは写真家なので若干写真が異なっている。

ま、それは後述するとして。

上野彦馬といえば有名なのはこれ

そっくりさんを集めたのか、それともコラ(というのか?)なのか…ま、いずれにせよ幕末から明治最初のころの写真といえば、上野彦馬が撮ったものが圧倒的に多い(はず)

当時の撮影

意外に上野さんの装備は軽い。

長崎歴史博物館より

つってもこのカメラはおそらく小さい冷蔵庫を横向きにしたくらいの大きさはあり、その上足がついているので持ち運びは大変だっただろう。
もう一個のトランクは、これはカメラを収納するための函ではなく、湿板ホルダーを入れておく箱である。これにさらに携帯暗室と化学薬品類をもちあるかなきゃいけないので、一個分隊くらいにはなった、はず。それを考えると日露戦争の頃になると荷物が随分減ってるなぁ…

面白いのが携帯暗室で、こちらで復元調査の記事が書かれている→http://youzo.cocolog-nifty.com/data/2004/07/post_28.html
本を読んだときはもう少し小さいものかと思ったが意外にでかいな。明治の戦争から引用してみると

西南戦争で彦まは特製の携帯暗室をしつらえた。これは黒く塗装された木製の箱で、トランク型をしており、携帯のために取っ手も付けられている。89x53x23センチの大きさで、まさしくトランクのように二つの大きく開くようになっている。片側には明かり取りのための赤い安全光ガラスが嵌め込まれ、もう一方には、排水に使う小さな穴があけてある。排水口のある側を下にし、明かり取りが正面に来るようにトランクをL字型に開くと、中には黒い布が取り付けられている。これを頭からすっぽり被り、腰の位置をひもで縛ると、簡易ではあるが、実に機能的な暗室が出来上がる。

このあと昭和の時代になっても携帯暗室というか、移動式暗室が実用で使われていたことを考えると、この携帯暗室は湿板をつくりしかも現像もできるという意味ではかなり画期的だったと思われる。ちなみに移動式暗室は仮設トイレが二つつながったのより一回り小さいくらいの大きさで、台車の上に載せて動かした模様。乾板はわりとすぐに現像しないといけなかった+ホルダーの密閉性がそれほどよくなかったため、こういう暗室が必要とされていたんですね。湿板なら尚更、ということなんだろうが、しかしそれにしてもすごいな。

上野彦馬と冨重利平の写真の違い

上野彦馬の写真:http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/jp/list.php?req=1&target=Hikoma
冨重利平の写真:http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/jp/list.php?req=1&target=Rihei, http://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/284929/www.pref.kumamoto.jp/education/hinokuni/tomishige/index%20g-1.html

個人的には冨重利平のコントラストがかっちり出ている写真のほうが好きなのだが、上野彦馬は西洋美術の影響をあまり受けていないせいか構図が浮世絵っぽくて好きである。

これなんかは特に浮世絵っぽさがある。
http://sepia.lb.nagasaki-u.ac.jp/zoom/zoom/zoom.php?id=5298
これ、拡大してみてみるとすごいんだが、ものすごく綺麗に映っている。湿板というのは自分でガラスの上に膜を形成しなければならないんだけども、この人は均一にそれを形成して、しかもそれを現像するのも同じくらい正確にやってのけたってことだ。とんでもねーな。手前の松の幹の質感もすごいし、奥側の船もすごく細かいところまで映っている。しかもこれ数秒から数十秒は露光させているので、そこら辺の感覚もばっちりだったんだろう。まじで職人である。すげぇ。ちなみにこの人、日露戦争開戦の年に亡くなっている。生きてたら大衆の写真熱をどう見たんだろうなぁ。


で、冨重利平のほうは、ここの熊本城を見てもらえるとわかるが、構図が少し浮世絵の定形型から外れている。基本的に浮世絵って見せたいものを真ん中に書くんだが、城は少し右手側にあって、奥行きがわかるようになっている。阿蘇の噴煙とかも山は右寄りに書くことが多いのを考えるとちょっと定形からはずれるかな…
ただまぁ永安橋なんかは浮世絵らしい構図だったりするし、逆に陸が左に、海が右に書かれている「田ノ浦から磯方面を望む」というのもあったりするので、いろいろと試行錯誤してたんだろうな、という感じだ。

というわけで、写真にも明治維新による西洋文化との交流が現れていますよという話でした。次回は日清戦争に行きます。今度は亀井伯爵の話やでー