明治と写真と戦争 -4

さて、今回は日清戦争に従軍した一般人の亀井茲明(かめいこれあき)のお話です。一般人と言っても華族だけども。次回は大本営写真班と陸地測量部のはなしですね! たのしくなってまいりました!

亀井茲明

亀井伯爵ってどっかで多分書いているけど、藤原家の子孫にあたる貴族だったらしいが、十五の時に亀井家の養子になった。体が弱い人で、日清戦争の翌年に結核で亡くなったんだが、たった36歳だったらしい。
が、まあ気力はある人だったのか(もちろんお金もあった)、明治十年になんでかイギリスに留学して帰国後宮内省につとめ、明治十九年にはドイツに留学している。なんとその時森鴎外と一緒にドイツにいたらしいので、つまり舞姫をリアルで…
いやいやいやいやまぁそれは置いといて。

この人は基本的には美術について学んでいた人で、ドイツからの帰国後は特に東洋美術院つくったり美術学校作れと言ったりなどしてたようだ。東洋美術院ってどこのことなんだろうなぁ…ちょっとわからない。あと東京芸大前進になる東京美術学校は明治二十年に設立されて、二十二年に開校しているが、亀井伯爵が建てた計画は火事でおじゃんになったとか書いてあるところもあるはあるので、別の私学を作ろうとしたということなんだろうか?年代的にかぶるので東京美術学校の設立に噛んでそうなんだが、この辺りはよくわからない。

ま、ともかく亀井伯爵は基本的には美術畑の人で、写真術はドイツ留学中に会得したようだ。しかしいくらドイツでもまだ写真機はそれほど普及していない時代だったうえに、帰国時に大判カメラを一台持ち帰っているあたりがさすが華族である。当時の大判カメラは二百円とか三百円…当時の総理大臣伊藤博文の月給が800円という感覚です。あれ?そうでもない?ま、学校の先生の給料が8円と考えてみるとだいたい今の感覚に近くなるのではなかろうか。たぶん。

亀井伯爵の従軍

亀井伯爵は軍人じゃないので、私設写真班として二軍とともに大陸へ行きました。写真師は本人の他に三人いて、橋本文三、森金次郎右衛門(森金周学のことらしい。彼はその後台湾と日露戦争にも行っている)、中村京次郎、ほか従者に名の六人メンバー。持ってったのはやはり四切暗函、しかも小西(コニカ)の四切!
この頃になると鞄の中にホルダーと本体を収納できるようになる(ただし三脚は別出し、本体だけで25kgある)し、乾板を使用しているので、西南戦争の頃よりは移動が楽だが、しかし今に比べれば断然大変で、乾板や現像用品などで総重量一トン以上である。

なお、従軍して撮影した写真は小川写真館で編集して写真集になっているが、一部はこちらでみられる。
http://yfm24651.iza.ne.jp/blog/entry/2895449/

(同サイトより)

乾板になったとはいえ、取ったらすぐに現像しなきゃいけないのは西南戦争の頃と同じである。どうやって紙に焼き付けたのかな、それはわかんなかったけどもまぁひとまず現像してそれを割らないように大事に持ち帰らないといけなかったわけで、それだけでも大変だ。そのうえ日清戦争は夏から冬にかけて行われたわけだが、大陸の冬は厳しいので現像するのも一苦労だったようだ。まぁ温度管理大事だもんなぁ。個人的には乾板が凍りつかなかったのだろうかということが非常に気になるのだが(日露戦争も同じである)、大本営の写真班の写真はあまり状態が良くなく苦労の跡が伺われる。その点亀井伯爵の写真は非常に明瞭な像が出ているので、なにか秘策があったのかな?と思うが、調べた限りはわからなかった。


亀井伯爵の写真

明治の戦争では大本営写真班のほうがうまいと書いてあったが、美術的な意味では亀井伯爵のほうがずっといいと思う。というか大本営写真版の方は記録的な意味では非常に良い写真が多いが、白飛びし過ぎてたり、露光時間がうまく行かなかったのか背景が飛んでたり、現像があまりよくなかったのか?と思われるほどノイズが多かったりしている。構図とかのうまさや、陰影は断然亀井伯爵のがうまいと思うんだよなぁ…ただ全体的には綺麗に映っているが、手前の人物の顔がよく見えないということになってたりもするので、どこに重点を置いてみるかという気はしなくもないですが。

個人的にはこれが好き。

地下足袋って!wあと中心の軍服の人以外は新聞社の特派員だそうで、おしゃれなんだかなんなんだか。あと、なぜ槍を持っているんだろう…w

あと「金州城内野戦病院における負傷捕虜の施療」とか、手前に残骸(?)みたいのがあって、奥に洋風の横に長い建物+煙突が立っていて、なんだか人が一箇所に集まっている写真があるのだが、三層のレイヤーにわけてあって主題が中層に、手前のレイヤーが奥に視線を誘導するようになっている。これは全景を記録することを目的とした大本営の写真班とは違う目線で捉えた写真で、映画のワンシーンか?油絵か?という感じ。いいなーこれ。

被写体が列になって並んでいるという構図は集合写真で一般的だが、そうではない写真でこういうのはちょいと珍しい。


船の写真もわりと貴重。ちょっとこれはジョウゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーの「解体のために最後の停泊地に引かれていく戦艦テメレール号」ぽい。多分船の後部から後ろに続く船を取ってるんだろうけど、陸地の入れ方がすばらしい。

左側に重心を置くのがこの人の癖なんだろうなぁ。浅井魁一も同じ癖がある(彼も日清戦争の写真は撮りに行っているはず)。


あと軍の中での立ち位置が何となく分かるのはこういう写真で、たいてい興味津々に眺めている下士官(と思われる)+どっか行けという顔をしている士官+ポーズ取ったりカッコつけてる士官+無視している人々というのが映ってることが多い。基本的に邪険にされてた(ただ亀井伯爵の場合は華族なので露骨に邪険にされなかったとは思うが)ぽいなぁ。

再現シーンとか遠景だとあんまりわかんないですが。


あと個人的にはこれすごいな!とおもった。中央が明るくなってて、奥に穴ほっている人がいて両側には人が立っている。視線が手前から奥へ移動するが、人がみんな奥側を見ているのでまたこれがね。しかも明るくてピントがあってるところに生きている人間はいないという。

調べると隠蔽された旅順大虐殺の証拠とか言われているみたいが、大本営から出版を止められていないのでどうなのかなー。当時と今じゃ価値観違うしなぁ。ま、真偽は知りませんが写真としてはすばらしいと思います。

というわけで亀井伯爵の写真について熱く語ってまりいましたが、次回からは大本営写真班の話です。次は陸地測量部か小倉さんのはなしかなー