なぜ在住邦人は差別がないと言いはるのか、あるいは差別があると認識した上での僕達の行動について

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誰か書くだろうとは思っていたが必要以上にひどいので、「人種差別はあります」ってことを書こうと思います。


さすがにGACKTの元の話までは遡らないが、上のリンクをまとめると、「GACKTは人種差別だというが、

1.中国人に間違えられた
2.感じの悪い客だった
3.フランス語が下手
4.奇抜な見た目
5.そういう店だった

のどれかで、人種差別ではないのではないか」という趣旨のことが書いてあります。が、中国人にたいして差別的な扱いをするのであればそれは明らかな人種差別であり、「間違われただけだからセーフ」なんて話が通るわけではありません。感じの悪い客に対して態度が悪いのは確かにどこでもよくあることですが、GACKTがそうだったと決め付けるのはGACKTにたいする中傷です。またフランス語が下手だからといって差別的な扱いをするのも人種差別ではないけれども差別ですね。奇抜な見た目ってのは思い込みだろうしGACKTさんかわいそう、というかあの人私生活は地味なんじゃないでしたっけ?5のそういう店だったというのはつまり、フランスでは人種差別を当然としてする店があるということをいっていますね。つまりこの文章は差別があるということを正当化しているだけでなく、GACKTの誹謗中傷を行っているどうしようもない文章なのです。良識ある大人のやることではありません。


僕はこの一年ほどかなりの期間イギリスに滞在しており、人種差別だな、と思うような出来事にも結構出くわしています。でも「あれ?」と思った時にまず考えるのは、「何か自分がまずいことを言ったのではないか」「適切でないことをやったのではないか」という自省です。それでも納得出来ない時は「なんか変な人だったのかな」と思って片付けてしまうことが多々あります。これはなぜかというと、差別をうけたと認識すると自分自身が傷つくからです。


被差別者になるのは傷つくのです。


旅行であれば数日から数週間の滞在なので「嫌な思いしたな」ですみますし、帰ってから旅の一コマとしてこんなことがあったというのもみやげ話の一つにできますが、その国に暮らし続けなければならない時に被差別者になると、非常に傷つきますし疲れます。特にネイティブのコミュニティに属していて日本人と会うことが少ないと「差別にあった」と口に出しにくく、ますます心に負担がかかります。それゆえに、在住者は基本的に「これは人種差別ではなくちょっと嫌な人にあっただけ」と思い込んで、自尊心が傷付けられるのを無意識的に避ける傾向があります。


でも、やっぱりどんなに言いわけをしたって厳然として差別は存在するのです。
十五のころからぽつぽつと海外に行っている僕ですが、いろんな差別にあいました。
有色人種しかいないバス停はスルーするバスとか、慣れない紙幣や硬貨にもたついていると釣りをちょろまかして、それを指摘すると舌打ちしながら正しい釣り銭を投げてよこしたりとか、列に並んでいるのにアジア人は飛ばして白人から相手をする係員とか、閉店時間がまだ来ていないのにアジア人はどうせ買わないだろうとシャッターを閉めはじめる店とか、数えれば結構キリがないほど見た目だけで差別されることは多いです。
また、パリは特に多いですが、日本人だとわかると親切そうにみせてやたら高いものをすすめるとか、日本人用のメニューには安いものを載せないなどというような差別をする場合もあります。若いアジア人の女性なら丸め込めるとばかりに物を押し売られそうになることもあります。そういう時に差別であると自覚しなければ、とっさに「ノー」を突きつけることはできません。


人種差別というのは早い話が舐められているのです。なぜ舐めてかかってくるのかといえば、彼らの想像力の及ぶ範囲の外側に被差別者、すなわち僕達がいるからです。どうせもう二度とあわないし、どうせ同じ言葉は喋らないし、どうせ怒らないし、どうせわかりっこないし、そういう気持ちで彼らは差別を行います。ごく自然に、当然のこととして。
でもどんな人だって多かれ少なかれそんな面はあります。僕達が旅先で恥をかいて平気なのは、そこにある生活が僕達の想像の外側にあって、日常生活とは関係ないからではないでしょうか。だから子どものように右往左往しても、食事ひとつにひどく苦労しても、それも旅だと開き直ることができるのです。日常生活ならなんでもないことに喜んだり、感動したりするのです。想像力の及ばない範囲の出来事というのはそういうものです。それが良い方向に出るか悪い方向に出るかの違いだけなのです。


差別は存在します。日本でだって女性差別を筆頭に種々様々な差別がありますし、世界中どこに行っても差別から逃れることはできません。存在しないなんてことはないのです。でも、どんなにそういう差別があったとしても、僕達は生まれた時に配られたカードといくつか新しく手に入れたカードだけをもって生きていかなければなりません。
目をつぶって差別はないというのもひとつの方法ではあります。その場で傷つきたくないのであれば、そうしてしまうのが一番てっとりばやいでしょう。でも長い目で見て一番傷が浅いのは、その場でノーということだと僕は思います。「あなたは差別をした」と相手と周囲にしらしめることが大事だと思います。そうすることで、その行為はやっと差別だと認識されるようになるのです。被害者はこれからも出るでしょうが、誰もがノーというようになれば、やがて減っていくものです。ほんとうに、ほんのすこしずつですが減っていくのです。


もしそんな勇気はないとか、あるいは面倒だとか、そう思うのならそれはそれでしかたのないことです。ですが、だからといって他人が差別だと感じたものを「それは差別ではない」と丸め込もうとしてはいけません。差別にかぎらずあらゆる加害者と被害者のあるところで「それは○○ではない」というバックラッシュが行われますが、事実をねじ曲げて○○ではないと主張して、それでなにがあるのでしょうか。自分の傷を直視したくないというのが本音ではないでしょうか。



追記:
「差別がある」というのは「○○国の人は差別的」という意味ではありません。誰か一人が差別的なことをしたからってその国すべてが差別主義なわけではないのです。その辺りをごっちゃにしていると、一番上であげたような主張をする羽目になります。自分がローカルなコミュニティにコミットしていると、「差別をうけた!」と聞くだけで自分も差別主義者だと責められているような気持ちになるんでしょうね。