http://spherical-moss.net/2010/02/tw-inferiority-complex.html

followingがもうすぐ800,followerが昨日800超えた2007年から組ですこんにちは(そんな言葉どこにあったんだ
前の捨ててしまったアカウントではフォロワーは100人前後に絞っていてよっぽど好きな人もしくはよくやり取りする人以外フォローしなかったし、TLを全部追えないので100人を超さないようにコントロールすらしていたのだけれども、今のアカウントに移ってからは、試しにどんどん増やしてみようと思ってそれからすごい流速になっている。前のアカウントの時に感じていたついったーの雰囲気は井戸端もしくは教室あるいはルームシェアリングという感じだった。なんとなくそこにいて一人でいる人もいるし集まって話している人もいる。誰かが帰ってくればお帰りと言い、出ていく時はいってらっしゃいと言い、寝る前はお休みと声をかけ、そういう現実。現実とシームレスにつながるネット空間(ネット空間と言う言葉を僕はあまり好きではない。それもやっぱり現実でできているから)。そこは誰かと話したいときはとても寂しかったし、ふと覗きこんだ時に盛り上がっていては入れない感じだと孤独だった。同時に一生懸命声を上げれば誰かが振り向いてくれたりもした。精神的にあまりよろしくない状態の時はあの空間は時々しんどかった。同時に優しかった。そういうところが本当にリアルだった。TLにいるほとんどの人と会ったことがあり、顔見知りで、そうなってくると現実と何も変わらない。場をぎすぎすさせないために言葉に気を使い、言わなくていいことは口をつぐみ、一方で甘えてなれ合いでしゃべって、そういう。そういうのも楽しいんだけどね。だけどね。つながりすぎるという孤独が時々恐ろしいほど強力に僕の体をねじ伏せる。

一気にフォロワーを増やしてからつながりと言うのはなくなったなと言う感じがする。そのときに@が飛んでくれば答えるしその場でフォローするけれど、誰に絡むわけでもなく誰からも絡まれるわけでもなく一人でしゃべっている。その気楽さとさみしさと。今までとは種類の違うさみしさと居心地のよさ。つながらないという楽しさ。どうせだれも気にかけてはいないだろうという心地よさに思いついたことをただそのまま書く。あんなに出ていたオフ会にはでなくなり、あったことない人ばかりがTLを占め、もしかしたら彼らはぼくのポストを見てすらいないだろうという予感を抱きながら好き勝手に呟いている。そのさみしさ。自由。自由と言うのは本来さみしいものなのだ。不自由と言うのは孤独なものなのだ。人間は、そもそも存在している時点で孤独なのだ。と思ったりする。その一方で充足している自分がいる。

僕は僕のスタイルでつぶやくだけなんだろうなと思っている。フォロワーが多くても少なくても自分のやり方で自分の言いたいことをつぶやけていれば僕はさみしかろうと悲しかろうと充足するのだ。そう、ブログがちょうどそうであるように。