Re:明日塾講を辞めます

ひょんなことから懐かしい記事が「関連エントリ」にでてきてたけど、キャッシュとか残ってないぽい?ので

■[教育][内省]明日塾講を辞めます

僕の経験では、教壇に立っていて、一番緊張するのが、「真面目だけど成果が上がらない学生」に対する時でした。
福耳コラム - 絶望しないふりはたやすいが


私はかなりできない子がくる補習塾の塾講師アルバイトをやっているのですが、かなりの緊張を強いられ、一時期は授業中に私が眠くなったりとか(暇だからではなく現実逃避)、冷や汗をかくとか、バイトに行く前におなかが痛くなるとかいうことが起こっていました。あれはバイトのやるべき仕事ではなく、本職として教える仕事をやっている人のやるべきことだと思います。そうでなければ彼らを引き受けられない。特に「まじめだけどできない子」「やる気はあるしまじめなのに成果が出ない子」は。そして期限だけは刻一刻と迫る。定期テストに、受験にと考えると時間はいくらあっても足りない。一対一もしくは一対二だからいくらでも相手にあわせることはできるけど、それでもいつも手探りで道を模索している気がした。三年も続けたけど、やればやるほど深みにはまって出られなくなるような気がした。いいこともあったけど辛いことのほうが多かった。やればやるほど後悔した、後悔することの方が多かった。

公倍数がわからない高3生、比の計算ができない高2生、アルファベットがまともに書けない中学二年生、等式の意味を理解していない高2生、年齢があがるほど教えるのは難しくなる。根本から復習するのは大変になる。どうしてもっと早く誰か気づいてあげなかったんだろうと思いながら時間と闘うのだ。彼らが黙り込んでしまうたびになにに突っかかっているんだろう、どこが悪かったんだろう、とあせり、時間にあせっている自分を戒めた。でも時間がなかった。とりあえず上っ面だけなぞって一時的に定期テストの点数を上げてやることはできる。それで自信を持たせることはできる。でも堂々めぐりだ。根本的な解決にはならない。でも時間がない。成果がでなければやめてしまうかもしれない、そういう板ばさみ。バイトのやることじゃないな、と思いながら目の前にいるとどうしても適当にすることができない私は向いていない仕事だった。


教えるという仕事はほんとに大変なことだと思う。あれを仕事とする人はすごいものだと思う。どこかで諦めるか、あるいは限界まで消耗するかどちらかを選ぶのだろうけど、でも教えるというのは生半可にできるものではない。とても大変なことだ。とても難しいことだ。どこまで行っても先は見えなくて、道を模索しているような気がする。

だから思うのだ。教える人は「教えること」に専念すればいいと思う。自分の持っている知識を相手に伝達することにだけ情熱を注げばよいと思う。人生観や価値観をあえて語らねばならない理由はない。それより先に、今教えるべきことがあるんじゃないのか。自分に課せられた「教えること」をきちんと相手に理解させ会得させることが先じゃないのか。人生観や価値観はそこから滲み出てくるものなんじゃないのか。いや、人格者なんかじゃなくたって別にいい。きちんと伝達できれば、その生き様は立派に人生を語っている。ことばで語る必要はない。


前に子どもが「どうして勉強しなければいけないの?」と聞いたときにすべきことは教え方が悪いのではないかと反省することだって書いたけど、教える側はそんなにいろんなことをしなくていいと思うのだ。それくらい教えることは大変なことだと思うのだ。「どうして?」というのはほんとに彼らを見ていて思うけど「わからないこと」「できないこと」が積み重なって彼ら自身がにっちもさっちも動けなくなったときに発せられることばだと思うのだ。だから「どうして?」といわせないように、きちんと伝達できているか?をまず考えたほうがいい。

きちんと伝達することは思いのほか難しい。相手は自分の言ったことの一割も理解できない。どんな頭のいい人でも、瞬時に相手のことばを理解はできない。時間が必要だし、何度も聞く必要がある。特に語彙の少ない子どもには思っている以上に伝わっていないし、質問もうまくできない。だから余計に難しく、しかもこじらせてしまいがちだ。どれくらい噛み砕くべきか、どうすれば記憶に残りやすいか、どうすれば理解しやすいか、どのくらいのペースで進めるべきか、そういうことひとつひとつ教える人は模索することを怠ってはいけないような気がする。

私もこれからもしかすると人に何かを教えることがあるかもしれない。もう二度と塾講師のバイトはしないけど、でも教えることから逃れられるわけではない。今度は私のフィールドで教えなければならないときがくるかもしれない。だから、思う。

同時に教えられる側でも私はあり続けるだろうと思う。教えられる側も教えられる側で、どこがわからないか、どういうイメージで問題を捉えているか、どこまではわかってどこからがわからないかというのをきちんと言語化するのは怠らないようにしたいものだと思う。教えることは難しい。同様に質問も難しい。そのどちらも忘れないでいたい。

若いよ!若いよ俺!そりゃ大学四年生だったもんな…もう3年?4年?まえ?
そしてまた今考えてみる。
質問に対する感覚というのは前に書いた。
http://d.hatena.ne.jp/wonodas/20100105/1262698233
http://d.hatena.ne.jp/wonodas/20100311/1268310467

同時に何度も書いてるかもしくはついったで愚痴っているけれども、伝えることを放棄している人との会話に苦労している。どうしてもこうですよね?こういうことでいいんですよね?あのときあぁいいましたよね?という言質をとるようなしゃべり方になってる自分が時々いやになるが、事実が共有されないよりはましだと思っている*1。大人のどうしてやなぜ、はそのあとに一般化するため、もしくは似たような状況になった時に適切に対処するためのなぜなので、子供とは異なる。ぼくはこのなぜにたいして適切でない答えが返ってくると割と頭に血が上るタイプなので、どちらかというとそこら辺をどうにかすべきなんだろうなぁ。同時になぜに対して返ってこなかった答えを試して失敗してだめだと言われて(またカッとなって)ある程度経験値をためてから理解するしかない。大人だからね。子供とは違って自分で理解する努力はできるし、その手段は方法論はある程度持っているからそれでいいのだ。でも自分で伝える時は?

一人二つ上くらいの先輩で教えすぎる人がいて、同期が完全に思考停止しているのを見かける。聞けば何でも最初から噛んで含めるように教えてくれるので、彼は覚えようとしないし何度でも聞くし(何度聞いても嫌がらない)、考えることもしない。整理もしない。何でもかんでもわかりやすく手とり足とり教えてしまうことは本当によいことなのだろうか、と僕は時々思ったりする。僕自身はその先輩とは微妙に波長が合わないしやってる仕事も違うのでほとんど接点がない(雑談はよくするが)が、彼からなにから教えてもらうのは正直重いなぁと考えている。彼はしゃべりすぎるのだ。考える余地がない。僕にはそれはしんどい。自分の中で自分なりの道筋をつける余地がないと息苦しい。そこに自分の解釈がはさめる余地がないと覚えられないしつらくなってしまう。果たしてそれが子供相手だったら、どうなんだろうか。などと考える。あの時の自分を振り返る。あの時僕は同じように、噛んで含めるように一から十まですべて説明しようとしていなかっただろうか。もしそうだったとして、それでよかったのだろうか。それとも。


何年たってもやっぱりまだ分からないものなのだな。

*1:僕だって先輩や上司は尊敬したいんだよ…