兄さんのはなし

あいつなぁ、なにかこうしたらいいんじゃないかとかやってみたらっていうとかならず、いや、って否定するんだよな。なんなんだろうあれ。彼はだらしなく椅子に背を預けて、僕のほうを見ずに言った。僕はパソコンから顔をあげて彼のほうを振り返る。
たぶんあの人やればできるんだって思ってると思いますよ。やってないだけなんだって。でもびっくりするくらい集中力が続かないし、ぼーっとしてることが多いんだけど。
椅子にだらしなくもたれかかっていた彼は僕をちょっとだけ見た。
そうなんだよ、あいつ。と彼は言う。びっくりするくらい自分のことはだめだだめだといってる割には妙に上から目線で人のこと評価するんだよな。あれってやっぱり自分はどうにかなると思ってるのかな。ちょっと難しいこと言われるとすぐぱにくるのにな。
僕は、彼がまじめなことを知っている。まじめなことを少し恥ずかしく思っていて、そうではないという格好をしたがることを知っているし、まじめさよりも格好をつけることのほうに重心を置いていることも知っている。そういうところがとても嫌だと思う。でも、最後にはまじめなところが彼を救っているし、周囲に評価されるものをアウトプットしてくる源泉になることを知っているから、嫌いではない。

そのミルクティいつも飲んでるな、と突然彼は言った。僕はもう五年くらい飲み続けてますと答えた。彼はちょっと笑った。

A君ってうちの妹に似てるからなぁ。うちの妹、やればできるってずっと思ってたんですと僕は言った。私はやればできるけどちょっと運が悪かったり調子が悪かったりしてやらなかっただけ、だからできないんだってずうっと思ってたみたいで。

うん、と彼はうなずく。

で、まあ大学浪人して、一年目は本当に散々でどこにも引っかからなかったんですよ。んで、やっとやらないとだめだってことに気付いたけど二年目もやっぱりだめで、ぎりぎり引っかかった大学に入って。けどぎりぎり引っかかったもんだから、やっぱりやればできるってやっぱり思ってるみたいで。やってないということには気づいたんだけども、自分ができないということは分からなかったんでしょうね。

ふん、と彼は相槌を打って、ゆっくりといすを回転させた。おなかの上で指を組んでいる。

就活の時はもっと大変で、春に決まらなかったから公務員試験受けたけど全落ちして、ほんでまた民間企業回ったけど九月になっても内定がなくて、2009年入社の人なんて私もそうだけど、普通に活動してれば高望みさえしなければ内定が取れたのにあの子はいつまでたっても決まらなくて、でもあの子はがんばってるのにわかってもらえないって言ってたんですよ。もう本当に昔っから頭が悪いのに、本人が一番わかってない。

彼はちょっと笑う。僕の話は妹を心配する姉のように見えるのか、それとも妹のことをこきおろす性格の悪い姉のように見えるのか、僕にはわからないし、その評価は僕にとって割とどうでもいい。
すぐそばの高速道路をトラックが通過するたびに不愉快な振動が床を伝う。夜も遅くなったフロアに人はほとんどいない。どこかからキーボードを叩く音がする。

でも、まぁ、そういう人って仕方ないんだろうと思います。どうやって付き合っていくべきかは分からないし、A君もどうにかしろよーとは思うけど、でもわからないんじゃないかな。わからないことはきっと仕方がないんだと思う。

ドライやな、と彼はまた笑った。僕も笑った。そういう、誰かに対していつまでもあきらめないところは嫌いではない。嫌いな人のことはさんざん言うけれども、心のどこかでは常にいつかわかってくれるという希望を抱いているところは嫌いではない。でも僕は冷たくて構わないと思っているし、できない人や嫌いな人に対して一線を引くことは悪いことではないと思っている。彼と僕の違い。大きくて、でも小さな違い。
あきらめないことは冷たさではないけれど、期待をされ続ける人に対しては責め苦にもなりかねないことを僕はよく知っているから。だから、僕はあの人がこれ以上ひねくれたり卑屈になったりするよりは先にあきらめて、彼ができることをできるように親切に差し出してあげたほうがいいんじゃないかと思っていたりする。それはもう仕方がないんだと言って。それが優しさなんじゃないだろうか。
彼はしばらく何も言わずに机を指でたたいていた。OJTをする立場として、彼がいろいろ悩んでいるのだということを僕はとてもよくわかっている。でも僕は何もしない。僕は何も言わない。聞かれれば答えるだけ。僕の言うことが正しいとも思わないし、彼が違うといえばきっとそうなんだろうと思う。彼がそうだというのなら、それでいいんだろうと思う。


コーヒー飲める?と唐突に彼が言った。また、建物が不規則に揺れる。飲めません、苦いから。うっそ。子供か。なんすかいいじゃないですか、だって苦いし。彼は笑う。そういうところ、やっぱり兄さんだなと僕は心の中で思う。