僕は彼が嫌いだ。彼がはいと電話相手に相槌を打っているだけでいらいらとする。非常に波長が合わないのだろう。でも用があればにこやかに話しはする。僕だって大人なんだからな、と心の中で思う。
僕は彼が嫌いだ。その言葉の選び方が、人のからかい方が、揶揄の多い話し方が、二言目には厭味をにこやかにいうところが、とても嫌いだ。でもその話の流れは非常に理路整然としていて嫌いではない。冗談とも本気ともつかない揶揄と厭味の嵐を右から左に流しながら、僕は言いたいことは言う。わからないことは分からないという。それだけのことなのに妙に疲れてしまう。ぐったりしていると上司が無理をしないように、まだ帰らないのか、と何度も言う。僕はもう帰ります、日報書いてるだけですと繰り返しながら彼らが帰ってしまうのを待つ。時折上司にもう店じまいだからと電気を消されてむっとする。むっとした僕に上司は帰ろうよと言う。なぜそこまでして帰らせたいのか。私は、あなたと、同じ、電車に、乗りたくないのです。心の中で呟いて僕は何も言わずににっこりと笑い、トイレに立つ。上司は悪い人ではない。悪気もない。ただ少し定型文しか喋らないだけで、時折それが厭味に聞こえるだけで、本人は厭味を言っているわけではないということが分かるから、嫌いではない。
嫌いではない。僕はつぶやく。嫌いではない。すきすきと臆面もなく思えるわけではないけれども、嫌いではないという響きは悪くない。少し近くて少し遠いその距離感は悪くはない。
好きという気持ちはとても吸引力が強いから、強大な寂しさを引き寄せてしまう。好きだ、かっこいい、美しい、そういう気持ちは絶え間なく僕に寂しさと自分自身のみじめさを思い出させる。じりじりと僕は焦がれたり、些細なことで浮かれたり、ちょっとしたことに躓いて落ち込んだりする。でも僕は好きだと臆面もなく言うことがとても好きだ。美しいと心から思うことが好きだ。その思いを、そのあたたかさを手のひらの中にいつも握りしめていたいと思う。
嫌いではないという気持ちはそんなことは全然、まったくない。ただ淡々と安定した日常を僕に与えてくれる。嫌いではないという気持ちの吸引力は限りなくゼロに近くて、同時に何かを外へ放り出してしまう力も限りなく弱いから、僕は安心して変わらない日常を歩いてゆくことができる。そういう日常の中で何かを見つけるたびに歓声を上げたり、ため息をついたり、寂しくなったりするのだ。
嫌いではない、は線をすぐに見失う僕の道標なのだろう。
これあげる、なんか変なにおいするんだけどすっげぇうまいよ、と僕の嫌いな彼は一度帰ったはずなのになぜかもう一度戻ってきて僕の手にカントリーマアムを押し付ける。僕はちょっと笑う。何しに来たんですか。いやいやちょっと忘れ物をしてね。あんまり油売ってるとまた奥さんが不機嫌になりますよ。彼は笑う。斧田さん、将来旦那さんがなかなか帰ってこないからって不機嫌になる嫁になっちゃだめだよ。
突然声が割り込む。いやいや、むしろ逆じゃない?斧田さんがたまには早く帰ってこいとか怒られてそう。僕はカントリーマアムをかじりながら振り返る。好きだという気持ちは眩しくて、時々僕は目が見えなくなる。