まだ名前決めてないんだよねぇと彼が言っていたのは半年くらい前だ。流行りの名前がいいよ、クラウドちゃんとか!それってはやりとは違くないか、などと言ってからかう人々など全くお構いなしで彼は無言で目を細めて笑っていた。彼がからかわれているのはいつものことではあったけれども、嬉しそうと言うよりは戸惑いや困惑といった方がしっくりくるようなそういう顔はなかなか見かけないから印象に残っている。

うん、もう帰ります、と彼は唐突に立ち上がり、かばんをひっつかんで帰っていく。この一カ月くらい常にそうだ。それまでに比べて残業している時間ががくんと減り、昼休みはいつも楽しそうにケータイを打っていたり何かを眺めている。僕はその隣で時々ちらりとそちらへ視線をやってからほほ笑む。


母親の膝と間違えて僕の膝の上で安心して眠ってしまった赤子のあたたかさを感じながら僕は鼻歌を歌っていた。乳児はまだ目がよく見えていない。体の動かし方も知らない。あいまいな輪郭しか持たない世界の中から、僕の輪郭をどうにかしてつかもうとして、彼は手を振り回すけれど、その動きはおそらく彼の意ほどは動いていないだろう。僕は時々膝を揺らしながら乳児を膝の上で眠らせる。その眼は急速に世界の輪郭をとらえられるようになり、指はしっかりと目当てのものをつかみ、やがてどうやって動かしているかわからなかった手足で地をはいずりまわったり、少し目を話している隙に走り回り始めたり、どうやって走っているのか不思議に思うほど不器用で大げさな動きで野球をし始めたりする。そうやって少しずつ少しずつ骨格が出来上がり、世界を構築できるようになり、電柱の数で道を教えてくれるようになり、そのうちに美しい世界を語れるようになる。その未来図を僕は描くことができて、その変化に打ちのめされたりする。でもまだ彼は僕の膝の上で眠っていて自力で動くことはほとんどできない乳児だ。どういうわけだか彼の母と間違えて彼は僕に全身の力を預けて眠っている。


楽しそうに、足早に家路につくその背中を見送りながら僕はその景色を思い出している。なんだか本当に子供みたいな大人なのに、めんどくさいことは聞き流してしまってよく突っ込まれては笑っている人なのに、ちゃんとそれらしくなっているのが微笑ましいと思った。まだはっきりとした世界も見えず、それらしい音も聞こえない乳児に向かって彼はどんな声で語りかけるのだろう。