プラスチック・カミソリ

いつもと同じおにぎりを手に取り、カップみそ汁を選んでいると後輩はまたそれですかぁと笑った。僕は彼女に微笑み返して、なんか昼にいろいろと考えるのめんどくさくて、と言った。彼女は言う。先輩だめですよ、恋しないと、恋。僕は笑って答えない。
女子の少ない学校で、ぼくたちはできるだけ同性の知り合いのことを嫌いにならないように自分自身を何重にもオブラートにくるんで、相手に刺をつきたてないように気をつけていた。その振る舞いはもうすっかり体に染み付いてしまっていて、その環境を離れてもまだ、僕は片手にプラスチックに似ている感情をもてあましている。
彼女は同じ研究室に入ってきた女の子だった。女子の数を考えれば同じ研究室に二人女の子がいるのは奇跡的な割合だった。でも僕は戸惑って、彼女とどうやって接すればいいのかわからずにいた。決して近づかないように距離をとりながら、それでも親しげに話をするのはとても難しいのだ。プラスチックだと思った感情は振り回し方を誤ると突然鋭い刀に変わってしまうとあの頃の僕は思っていた。鋭い刃をやみくもに振りまわして誰かを傷つけたくはなかった。僕はそのことを何よりも恐れて距離をとっていた。
彼女もおそらくは少し、そうだったのだろうと思う。でも彼女は近づくことはためらわない人だった。傷つけたら謝ればいいやという人だった。謝れば許してもらえるだろうと思っている人だった。年上の人は傷つくわけがないし、たとえ傷ついたとしても自分の前から姿を消すことはないだろうと信じている人だった。
居室に戻って僕はおにぎりをほおばる。彼女はカップスープにお湯を入れていただきますと手を合わす。僕はそんな彼女を横目で見る。おにぎりを食べ終えてから僕は味噌汁のカップにお湯を注ぐ。先輩って、と彼女は言う。汁ものとご飯一緒に食べないんですか?変わってますね。僕はちょっと笑って、おにぎり食べてる途中にカップを持つとカップが汚れるから、と答える。以外に細かーい、と彼女は言う。僕はちょっとまた笑う。
先輩恋しないんですか、と彼女は重ねて言う。先輩もてるんでしょ、だって可愛いもん。かわいくないよ、と僕は少し低い声で答える。僕はかわいいといわれることになれていないし、そのことを少しいやだと思っている。でも彼女にそれを言うのはためらわれた。自分の信じている世界を崩されるのは嫌なものだ。ましてや褒めているのにそれを嫌がられるのは傷つくだろう。そう思うから僕は本当のことを言わない。感情をラップにくるむようにぐるぐると自分の言葉でくるんで圧力をかける。だんだんそれは押しつぶされて平面になっていってしまうからとても苦しくなる。
絶対彼氏いたほうがいいですって、すぐできますって、と彼女はぴらぴら手を振りながら言う。僕はまたちょっと笑う。言うべき言葉が探せなかったとき僕は笑う。笑うことしかできない。笑っていたら誰も傷つかないから。だから無意味に笑う。だれのためでもなく笑う。そのことをとても悲しく思う日もある。腹を立てながら僕は笑う。
あの人とかいいんじゃないですか、今彼女いないし。ってかぜーったい先輩のこと好きですよ!ほんとに。と彼女は言った。もう何十回も聞いた話だ。予定調和に僕は苦笑してえー、とだけ言う。彼女の勧めてくる男性は悪い人ではない。でも臆病すぎるのだ。傷つけられるのをなによりも怖がっている。僕は彼女と話すときよりもずっと慎重に感情を圧し潰して彼と対面しなければいけないことを苦痛に思っている。悪い人ではない、は好きではないとは違う。でも好きとは決定的に異なっている。
ないって、ないない。先輩あの人のこと嫌いなんですか?嫌いじゃないけど…。じゃぁいいじゃないですか。だからよくないって。僕は味噌汁の残りを喉の奥に流し込む。彼女は春雨スープをかき混ぜながらえー、と少女のように笑う。僕は少し意地悪い気持ちになる。僕はそんな顔をしない。少女のように過ごせた時期は短かった。ただ黙りこんで壁になれることを願い、空気のように透明になりたいと願った僕にとって、恋だの憧れだの先輩だのという言葉は呪詛にしか聞こえないのだと彼女に言ってやりたくなる。でもその思いすらも僕のぺらぺらになった感情ではうまく表現することができない。僕は当たり障りのいい鮮やかな色の感情を組み立ててまるでそこに立体があるかのように装うのだ。


どうしてそんなにくっつけたがるのさぁ、もう。彼女はきらりと目を光らせて言う。だって面白いんですもん、あたしが。僕は絶句する。そして怒りを口に出せなかった自分に絶望する。
僕の心は既製品になって、他の誰かと同じように判で押したような反応しかしない。同じかたちをして同じ色で、同じ厚みで、既製品の美しさを保っている。でも僕は泣きだしたくなる。それが僕の皮膚を引っ掻き薄く血をにじませていることに気づくから、泣きだしたくなる。薄くなりすぎたそれは鋭い剃刀と変わらないのだ。平面を触れば問題ないけれど、縁を触るとすっぱりと皮膚が裂けてしまう。楽しそうな色をして、うつくしいかたちをして、あたらしい機能的なもののふりをして、僕は切り取られる。


ほんと気が強そうだもんなぁ、そうやって同期の女王やってるんだろ、これだから理系女子は!と彼が言うからぼくはうぜーとだけ答える。どっと周囲が笑う。笑われた当人はひどくあせって、どうにか取り繕おうと支離滅裂なことを言い始めるから、上司が僕に向かってこいつ斧田さんに興味がありませんって言いたいみたいだよ、という。僕は心底笑顔でわぁよかったぁというと、また笑い声が起きる。斧田さんが本領を発揮している、と呟く隣のおじさんに僕はなんですか?ととぼけて言う。彼は笑う。いつの間にか僕は誰かを傷つけることに鈍感になっている。でも泣きたい気持ちにはならない。怒りだす人もいない。気が強いとか口が悪いとか言いたい放題言われるけれど、僕は笑ってやり過ごすことができる。感情を研ぎ澄ましその先っぽを少しだけ丸めて人をつついたりする。その強度は十分でぺらぺらと風に吹かれて曲がることはないから、僕は安心して構えていることができる。圧し潰すことなんてなかったんだ、と僕は反省する。圧し潰すから縁は鋭い刃になってしまっていた。厚みがあればそれは触ることができるようになる。手を滑らすことができるようになる。複雑な色味をつけることもできるようになる。ただ縁を少し丸めてやるだけでよかったのに、僕は分からなかったのだ。