ライフ八苦www久しぶりに書いたwww
http://lkhjkljkljdkljl.hatenablog.com/entry/2013/02/03/010532
こんなの読んだので。元記事は一応目を通してあーあたり前のことを当たり前のようにしか書いとらんとスルーしたが、おれも○○するための×個のなんとかは好きじゃねーです。
あとうまくなりたいならまず書けと。とにかく書けと。というかそれだけだと。正攻法はたった一つだと。言いたい。
しかしまぁそうは言ってもある程度テクニックがあると急にレベルが上がるというのも否定はしないし、自力で見つけるよりはすでにあるものを参考にするのが良いというのも事実である。
たとえば修辞法を知ってるとだいぶ変わる。
http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~ame/word/Rhetor.html
僕は2006年ごろへろへろの文章初心者で、クソみたいな文を量産していたうんこ製造機だったわけだが、その時使ってた修辞なら初心者の皆さんでも多分使えるだろう。修辞使うと割りとブクマ引用率が高くなるよ、マジで。同じ事書いてても修辞使うとやっぱり目を引くらしい。誤字脱字とかどうでもいいので修辞を使えるようになるといいと思う。ただし仕事の報告書なんかでは全く使えないので単純に名言っぽいことを書きたいとか最後の締めをかっこ良くしたいという用途でしか使えないけどな!な!
あと僕は別に修辞とかの専門家じゃないので往々にして間違ってることはあるかもしれません。すみません。
漢詩を参考にする
http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/choes/etc/kansi/index.html
いきなり漢詩かよ、ハードルたけぇなと思うかもしれんがそうでもない。
例)
羞日遮羅袖 愁春懶起粧 日をさけ羅袖を持って遮る 春を愁いて起粧するにものうし
易求無価宝 難得有心郎 求め易きは値なき宝 得難きはこころある郎
枕上潜垂波 花間暗断腸 枕上ひそかに涙をながし 花間ひそかにはらわたを断つ
自能窺宋玉 何必恨王昌 自らよく宋玉を窺う なんぞ必ずしも王昌を恨まん
魚玄機(森鴎外)より
意味はよくわかりません(おい。
この場合二行目(頷聯)がスペースで区切られた前後が対句になっている。易<->難、求<->得、有<->無、価<->心(ものと心という対比)、宝<->郎(ひとのことか)と全部対になってる。魚玄機すげえ!なんでそれで嫉妬で人殺しちゃったんだ…(そういうお話です)
三行目(頚聯)は対句ではない気がするが、日本語的な修辞からすると列挙にあたるのかな。これは割と使いやすい。
対句はかなり作るのは難しいですが、列挙はそんなにむっかしくない。
例)
ライフハックは自分で作るものだ、人に教えてもらうものじゃない。楽しい事だって自分で見つけるものだ、人に教えてもらうものじゃない。
僕が昔書いたライフハック批判エントリより
同じ事を少し言い方を変えて二度いっているだけですね。簡単です。ひたすら繰り返すとリズムが悪いので二回は同じ構造で、三回目以降は少し崩すといいと思います。大事なことは三回言ったほうがいいです。
三回繰り返す場合は
世の中は糞であり、ぼくは糞であり、そしてそこに生きる人々もみな糞であるが、そのことは往々にして忘れ去られているものだ。
ちょっと接続詞入れる程度なら誰でもできるね!
「好きではないこと」があるから「好きなこと」は際立つのである。「しなければならないこと」があるから「好きなこと」をしたくなるのである。
僕が昔書いた本当の自分とか好きな事をしろとかいう人々は胡散臭いという批判エントリより
若干対句ですが同じ事を少しいい方を変えているだけですね。先頭のカッコないは対句を意識しようとした後が伺われますが、失敗しております。
自分を偽ることはできる。だが、人生を捨ててしまうことはできない。それは自分を捨てるということだからだ。
対句にしたかったけど言葉足らずだったので、あとの句の方をリズム感を失わない程度に二つに分けてますね。
自由は善であり、不自由は毒であると思っている。
これも対句。短すぎるので綺麗に対にする(毒を悪とする)とさらりと流されそうだなということでちょっと崩してるけど
ひたすら手前味噌に書いて参りましたが、まぁそんな訳でそんなに難しくないですね。
一般論の後に、だが〜と自分の意見を続ける
基本的な技法だとは思うけど、その差が大きいほど効果は高い。ただし差が大きいほどちゃんと説明しなきゃいけないけどね。
パンドラの箱の中に残ったのは希望だったが、それこそ最も邪悪なものだと私は思う。
http://wonodas.hatenablog.com/entry/2012/07/07/221822
一般的に見れば僕は自由の国で育ったとされる。それはなにものにも妨げられることはなかったし、これからもそうであると、一般的には思われている。
だが、実際のところ、自由を所与とみなした時から不自由は始まるのである。
応用として言葉に含まれる前提を大きくひっくり返すという手法も有る。
山月記なんか有名。
共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である
自尊心と臆病は並べないし、羞恥心と尊大も並べない。その上これは列挙になっていて素晴らしいですね、やっぱり。
努力は最も勤勉な怠惰だ
努力と怠惰は普通結びつけない。
比喩を大げさにする
おれの大好きな永遠の0の冒頭(中身はそうでもない。プロローグが好き)
あれは確か終戦直前だった。正確な日付は覚えていない。しかしあのゼロだけは忘れない。悪魔のようなゼロだった
悪魔のようなゼロ!それが何かはわからないが、お手本のような素晴らしい冒頭です。だって気になるやん。ゼロが何かわからないし、その上悪魔のような、だぜ?
真似て似たようなことをしている
すりガラスの向こうに変わっていく橙色の空を今でも覚えている。あの橙は生命の色だった。
まずこういうところから考えて文章作ってます。
文章を短くするのはほんとうによいことなのか?
文章を短くしろというのはそれこそ何処にでも書いてあることだが、肝心の短く仕方を書いてない気がするのは気のせいか。おれは基本文が短い人ではあるが(たまにダラっと長く書くが)、初心者はほんと一文の中に含意されることが多い。言いたいことたくさんあるからね。だから書いちゃう。そしてそれはとってもいいことだと思う。でもわかりにくい。初心者だからこそわかりにくい。上手い人が書けば長い文でもわかりやすい。
では長い文を分割にはどうするか。
たとえば
何かを諦めなければ夢がかなわないわけじゃない
超絶わかりにくい。否定が多すぎ。
ちょっと変えました。否定を減らした。
何かを諦めることと引き換えに夢が叶うわけじゃない
でもやっぱりわかりにくい。あと意味が違う。
ここは修辞的否定を使うのが良い
何かを諦めなければ夢はかなわないのだろうか。僕はそうではないと思っている
これ、文章はむしろ長くなってるんだけど明らかにわかりやすい。
結局推敲というのは一文の中にある情報を少なくして、複数の文に分割していくということなんだろうと思う。