明治と写真と戦争 その1

歴史を全然知らない俺がカメラの歴史について調べてみたらなぜか日露戦争から抜け出せない件について

はい、こんにちは。斧田でございます。
年号が覚えられないので歴史全般が苦手な上に、カタカナが読めなくて世界史は死亡した過去をもってして、歴史はアンタッチャブルなものとして個人的に扱って参りましたが、最近カメラの歴史について調べてたら近代史面白いなーと思うようになりました。カメラすごい!(たぶんちがう
ちなみに日本史は中学校で習ったのが最後だけど確か近代史には行き着かなかった。近代史は小学生までだ。世界史は高校のときに習ったが、大航海時代くらいまでしかいかなかったんじゃないか?あとあんまり関係ないけど、うちの高校、野球がそこそこ強いところだったんだが野球部の顧問はなぜか社会科の教師が多く、試合だのなんだので年間の半分くらいいなかったので、政経もまともに習ってない。地理だけはおじいちゃん先生だったのでちゃんと習いました。二年やったしね。


さて俺の歴史問題はどうでもいい。明治時代のカメラの話に戻る。

カメラといえば金持ちのもの

…と思いきやそうでもない、わけはなく、やはり金持ちのものだった。国産カメラは後で書くけど明治三十六年をまたねばならず、基本的に写真機は輸入品、だいたい二百円とか三百円とかする。そろそろ乾板に変わりつつあった時期だが、まだ湿式も現役だったので、機材だけでなく現像・印刷…となると、やはりとにかく金持ちの道楽だったようだ。しかし写真師は結構生まれている。ま、みんな元が金持ちですけどね。

実は結構偉人の写真をとっている小川一真夏目漱石の写真を撮った人だ)、戦争写真の魁の亀井茲明(これあき)小倉倹司、浅井魁一とか、とかとか。小川一真は商業的にうまい写真が多いのだが、個人的には亀井伯爵とか浅井魁一の写真が好きですかね。亀井伯爵はわりと西洋美術をきちんと学んだ上で構図を取っている感じがする。浅井魁一はものすごく嗅覚の鋭い人っぽいな、と思う。ただあんまり名前は残っていない。人柄的には小倉さんが一番好きだが。

小川一真は写真界では重要人物だったので結構資料がある。と言うか画報がいっぱい。。。
写真界の先覚 小川一真の生涯


小川一真のポートレートこちらより)


あと亀井伯爵もちょっとあるかな。

日清戦争従軍写真帖―伯爵亀井これ明の日記

日清戦争従軍写真帖―伯爵亀井これ明の日記

亀井伯爵は評価がわかれることもあるけど、1900年代初頭の油絵で非常に流行っていた日向と日陰のかき分けを写真で表現しようとしているフシがあったりなどして俺は好きです。

大衆に写真を普及させたのは小川さん、技術的な面での向上とかその教育とかは小倉さんがかなり尽力している。小倉さんはあんまり商才がなかったっぽくて、しかし軍人にもなれ(ら)なかったのか*1、十五で写真館を立ち上げたはいいものの翌年には廃業し、しかもノイローゼになってひきこもるという有様*2。ただ、その後陸軍陸地測量部*3に入って小川さんと出会ったあとは、めきめきと頭角をあらわした…みたいな感じである。
小川さんは相当商才があって、偉人の写真を結構撮っている(時々2chにスレが立つ明治の写真にはかなり小川さん撮影のが混じっている)わ、軍部と懇意になって戦争写真画報を出版して一儲けする(これがきっかけで絵葉書が大流行した)わ、才能のある写真師をいっぱい抱えてるわ、アメリカに留学に行くわ、東京百美人企画に参加するわ…しかもイケメンときたもんだ。

小倉さんはあんまり資料に残っていないが、第二軍従征記にちょろっと出てくるところを見るとだいぶ人柄が忍ばれる。軍関係だと小倉さん撮影が多いのかな。日露戦争の祝賀会の撮影でフラッシュ炊いてうっかり天井燃やしたのは多分立場的に小倉さんだと思います。みんなでシャンパンとかで消火したらしいよ。なにやってんのー
あとこの第二軍従征記のなかに出てくる大本営写真班の写真師で遼陽会戦のあとに田山花袋とはなしているおしゃべりな人は保坂さん、山崎さん、中村さん、森金さんのうちだれなんでしょうね。森金さんぽいー。

なお、彼らがわりと日本写真界の中心にいたため、どうしても日清・日露戦争に触れざるをえないのだった。軍に絡むと儲かったんだろうなー…

庶民のカメラ

1900年にはフィルムカメラは出ていた

1900年ちょうど(一応19世紀だ)に出たブローニーNo.1(コダック)。お値段たったの$1だが、当時のカメラの価格としては安い方だった。ただ物価は、アメリカ人の平均年収が$500の時代なのでお察しのとおりである。おそらく中間層以上しか手に入れられなかったと思われる。この頃生きてたら狂乱しただろうなー。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~clenssic/camera-no2browniecamera.html

(同サイトより)

$1というお安い値段だったので、外装はなんと厚紙! このため現存するものは少ないらしい。ものすごいなー厚紙とは。意外にアメリカも紙文化である。アマゾンのダンボールとか(ちょっとちがう

なおブローニーNo.1は117mmという変なフィルムで、フィルム普及の決定打はどちらかといえば翌年発売されたNo.2の方だろう。これが120mmフィルムを使用していたので、今でも120mmフィルムのことをブローニーと呼ぶ。それくらい売れた。もちろんコダックはフィルムを売るためにブローニーを作ったので、その後百年あまりはウハウハだったわけである。しかしデジタルには転換できず今は落ち目。栄枯盛衰だなー。

ブローニーは米産だが、当時の日本は英国とか欧州の方と仲が良かったのか、そんなに入ってきてない感じだ。一応持ってる人は持っていたみたいというか小川一真は間違いなく持っていたと思うが。

国産初のチェリー手提げ暗函

明治20年代に、関西の人が東京人形町の辺りで営む有田商店が、素人用の写真器と云つて軽便写真器を売り出し好評を博した。それは手札の半分のサイズでニス塗りの箱型であった。夫れから又、神田の松富町の通りに、小さな店で素人写真器やが出来た。之れも物珍らしいのでたちまちの中、其店は多町の表通り新石町あたりへ移つて、営業にやる写真器を作り出して次から次と御客が来る。

http://www2f.biglobe.ne.jp/~ter-1212/sakura/cherry.htm

この軽便写真器というのは、現代で言えばコンパクトカメラという意味である。と言うよりはトイカメラかな。

国産初と銘打たれているが、チェリー手提げ暗函の発売は1903年(明治36年)であり、十年少し前あたりから写真機とは呼べないシロモノがなにやら流行っていたらしい、ということはわかる。たぶんトイカメラより質が悪かったと思われ、撮影した写真などは見つけられない。大きさは両手で包める程度(名刺判)、レンズは一応ついているがシャッターはついておらず、蓋の開閉で調整する。そう考えるとレンズも相当暗かったんじゃないかなぁ。露光時間は短くても一秒程度だろう。
それでもものすごい人気だった。三円もするのに!(小学校の教員の月給が八円程度なのでそこそこ富裕層は買えた)

そこに遅れて出てきたのが、国産初のチェリー手提げ暗函である。発売元は小西本店(のちのコニカ)。国産初ということになっているのは、おそらくシャッターがついていたからだろうと思われる。

(カメラ博物館サイトより)

ちなみにチェリー手提げ暗函はリンク先に行ってもらえれば詳しいスペックが書いてあるが、12.5cm x 12.1cm x 7.2cmの大きさで本当にコンパクトである。乾板の大きさは名刺版サイズ(5.3x8.3)だが、それでも135mm(2.4x3.6cm)よりは大きいんだからそこそこには綺麗な画像がとれたんだろうなぁ。もちろんレンズの性能が悪いしズームどころかピント合わせる機構すら多分ないので、今と比べるのはナンセンスなんだけれども。

ちなみにこのチェリー手提げ暗函は売れに売れ(当時としては)月間100台は出た。売れすぎである。

本格的なカメラの技術普及

当時の資料のなかで、写真技術に触れている文書というのはそれほど多くないが、写真技術は一部の留学した写真師が皆伝する場合と、学校で教えている場合がある。その中で組織の性質上もあるのだけども、きちんと残っているのはやはり後者で、主に陸地測量部だ。あと軍人さんの手記。ちなみに明治というのは本当に日記が多い。猫も杓子も日記を書いている。しかもいずれ出版されることを夢見て?構成を練っているものも多くある。どんだけ活字好きだったんだと思うが、今のブログのようなものなのだろうか。ひっそりとしたためていたと考えるとわりと胸熱である。

陸地測量部って今の国土地理院の前身に当たる陸軍所属の組織なのだが、当時は測量にあわせて写真技術・印刷技術の教育もしていたらしい。製図もするのでなんか図画教育もやってて画家を採用していたようでわりとなんでもありな組織である。
測量の歴史はこのpdfがおもしろい http://www5a.biglobe.ne.jp/kaempfer/archive/ac-otona/shiseki-chubu.pdf

で、前述の小川一真は写真普及(と多分商売のため)に陸軍と仲良くしていた。それで、小川写真館から写真師を送り込んでは戦争写真を取らせ、自分のところで出版している。うまいなー。カメラと乾板も買ってもらえるしな。
が、まぁ陸軍大本営も別段写真にみながみな理解があったわけではなく、実際に陸地測量部で働いていた小倉さんはわりと苦労して大本営写真班を組織したみたいです。日露戦争写真集に日本出発前の写真が載ってるけど、一番軍人ぽい感じ。ただ二軍の将校と談笑してるところはそのへんのおっちゃんぽいし、居ても立ってもいられないと言って第一線に出て行く辺りはなんというかもう…

だれが撮ったんだかわからないけど「写真 明治の戦争」に出ている日露戦役戦況撮影部部員一行出発の一枚はとてもいいな。

中央で座ってるのが小川一真、その右隣が小倉倹司、左隣が浅井魁一、ほかはわからないけど、小倉倹司の隣でぴっしり立ってるのがおそらく吉川一太郎、小倉一真の後ろの人が大塚徳三郎かな。吉川さんの後ろの荷車に乗ってる木箱には「大本営写真班」と書いてある。2以降で書くが当時のカメラの性能的にカメラだけを持っていけばいいわけではないので荷物がほんと半端ない。ただこれでも日清戦争の時よりは減ったらしい。どんだけだよ。
あと浅井魁一なんで雇員なのに服が違うのw

写真 明治の戦争

写真 明治の戦争

というわけで戦争写真まで行き着かなかったが2へつづく。

*1:お兄さんは職業軍人である

*2:単にまだ腕が未熟だったのかもしれないが

*3:途中で測量部の位置づけが変わるがとりあえず