そして今年も境界に立つ人々について考えよう。はじめから可視化されることのなかった彼らについて思いを馳せよう。

過去ログより

私はいつも、境界線上に立っている。
既得権益を持つものとそうでないものとの間に、裕福と貧乏の間に、支援を受けられるものと受けられないものの間に、幸福と不幸の間に、そのどちらからも批判され見放され無視される境界線上に、私は立つ。


境界線上にいる人々に手は差し伸べられない。眼差しは向けられない。彼らは声を上げられない。苦難を叫べば完全な弱者からお前は強者だと言われる。完全な強者からはそんな弱い心根だからとせせら笑われる。弱者からは強者に取り入っていると言われ、強者からはもっと弱者がいるのだから我慢しろと言われる。それが境界線上に立つということだ。その意見を、心を誰も汲み上げない。彼らは傍観者であり、当事者ではなく、そして常に無知と偏見と恫喝と暴力にさらされる。
だが、それでも私は立ち続けるだろう。ここにいることに私は意味を見出し、足を踏ん張り耐え続けるだろう。境界線上にはあらゆる苦難と問題が堆積している。時に雪解けの日はあり、春の日差しを楽しむこともできる。だがその多くは厳しい寒さに耐え、認められないままじっと待ち続けるだけの日々である。それでも私は立ち続けるだろう。ここに降り積もる問題を僕は問題として認識している。ここに立ち続けねば見えないものがあると知っている。酷寒しかしらねば、我々はそれになれることができる。常夏を享受すれば冬のことは忘れてしまうだろう。そのどちらも交互に訪れるこの過酷な場所だからこそ、私は目を見開き、その問題を凝視することを許されているのだ。


立ち続けることは困難である。
凝視し続けることは苦痛である。


それでも、私は立ち続けるだろう。

あの日から、僕はずっと境界線上に立ち続けている。ここはいろいろなものがよく見える。現実はいやおうなく、ありとあらゆるベールを取り払われ、ただあるがままにそこにある。僕にはそれが見えるし、誰も僕がそれを見ていることを知らない。境界の外にいる人々は僕のことを境界の内側にいる人間だと思って非難する。境界の内側にいる人は、僕は境界の外にいる人間だと思ってさげすみ、そこにいるのは自己責任だという。どちらかに足を踏み入れることも、今の僕ならできる。でも、僕はいまもなお境界線上に立っている。そして世界を見つめるのだ。