お前今はそれどころじゃないだろう、死ぬ気で書けやと俺が俺に言っておりますまったくだよいい加減にしやがれこのやろう!。いつものこの時期は校正に入ってるっちゅうのに…


それはいいとしてなんでいきなり将棋はじめたかっていう話なんですが、これがずっとのどの奥に小骨のように引っかかっていて、だけど漫画って読み始めると大変なので(しかも連載中だし)後回し、後回しにしていたんですよ。
anond.hatelabo.jp
これね。

3月のライオン 4 (ジェッツコミックス)

3月のライオン 4 (ジェッツコミックス)

僕は4巻と6巻と8巻と9巻が好きです。にかいどーーーーー二階堂はいいやつだ。あと島田さんと土橋さんと…まぁとにかくまじめに将棋やってるところが好きです。
なんでかっつーと日常パートがファンタジーで僕には優しすぎる世界だからです。いや、いいんですよ。いいお話ですよ。そんな辛い話ばっかり読みたくないじゃん。だから波風あって、だけど死ぬしかないようなひりひりするところまではいかなくて、必ず救いがあって事態は収集するそういう日常は本当に大切ですけど、実際ってそうじゃないからね。
天涯孤独になっても拾ってくれる人はいないかもしれないし、養子になってもちゃんと飯をもらい教育を受けさせてもらえるとは限らないし、本人がジーニアスである可能性は限りなく低いし、未成年がぱっと部屋を借りれるということもない。親が死んで小さな妹が残されて、それで生活をしていけるかどうかはわからない。ちかくに自営業のじいさんは必ずしもいないし、高卒ですぐに割と融通の利く仕事が見つかるとは限らない。年寄りの自営がずっとうまくいくとは限らないし、叔母は普通銀座に店を持ってないし、クズは簡単に引き下がらない。ヒルのようにまとわりついて臭いくらい、少し冷たい泥の中に引きずり込まれるんだ。

世界は氷のように冷たくて、ともすれば僕らはバランスを崩してその中に落ちてしまう。落ちてしまえば身も心も凍ってあとは沈んでいくほかない。だけれどもあのファンタジーの中ではそうではない。貧しいとは言ってもそこにヒリヒリと焼けつくような切迫感はない。ただひとつ、現実感があるとすれば、棋士の勉強量だけだ。あれだけはリアルで納得がいく。努力しても得られないものはあるけれども、泥臭くても量をこなせばある程度まではいける。しかしそれでもある程度まで行くと体が動かなくなることもある。その先に足が進まないこともある。進まなければならないとわかっていても、だ。だから棋士がちゃんと将棋をやっている四巻、六巻、八巻、九巻が僕は好きなんですねぇ。


そして毒親の話だ。三姉妹の父親についてはクズはもっとクズだといいたい。クズは自分がクズな言動をしているとは思っておらず、全て正しいことをしていると思っている。だから頭のなかで現実を書き換えたらその現実が正しいと主張し、本当のことを知る人を嘘つきと罵倒し、自分は被害者のふりをするのだ。
僕は何度も見てきた。それにいつの間にか巻き込まれているのは本当。だからこわい。こわいから、逃げなければならない。現実をぎゅっとつかまえていなければならない。でもそこまで書くと書いている人が死にかねないのであれくらいでいいんだと思います。創作に殺されたらおしまいだ。個人的にはクズの書き方という点では断然クロニクルをおすすめする。


んでくだんの増田の毒親論である。
幸田父は主人公桐山零の父親の友人で、零の家族が全員死んだ時に零を引き取ったのだが、零、あるいは幸田家の子どもたちからすればそれは零に将棋の才能があるからだということになっている。センスがあるってやつだ。センスのない幸田家の長男は自分で将棋をやめ、長女は奨励会をやめさせられた。父親は長男が将棋に向き合わなくなった時に「人に言われて努力する人間ではこの先(将棋の世界では)やっていけない」といい、長女にやめろといった時は「他にも道はある」といった。当人は将棋の世界の中だけで生きてきて、他の世界のことは知らない。
途中幸田母が出てくるが、彼女に言わせると零は引き取られたということを加味してもいい子で、そして練習量が自分の子供達とは桁違いだった、だから強くなったのだと言っている。


客観的に見て長女は多分そんなに将棋が弱いわけではなく、化け物級の零と比べる幸田父は厳しすぎる…のだが、零がいてもいなくても長女はいずれ伸び悩んでいたのだろうなと思いますね。なんとかプロ入りしても(彼女の場合女流になるのか?)どこかで成績はうちどめになり、その頃には相当頑張らなければ「ふつう」の生活が送れなくなっている。その時にもやっぱりこの子は父親を憎んだだろう。
人は生まれながらにして違っている。それがいいか悪いかということではなく、とにかく違っている。何かの分野に才能があるかもしれないが、それに出会うとは限らない。最近僕は努力できない分野では頑張らなくてもいいんじゃないかと思っている。いわゆる才能がないってやつだ。才能がなくたっていいのだ。他の分野では才能が有るかもしれない。努力を努力とも思わず取り組めるかもしれない。人間ってそんなもんじゃん。できないことにしがみつくことはないんですよ。このとーちゃんは他に世界を知らないけれども、一応他にも道はあると諭したんだからそこまで悪しざまに言われることではないんじゃないの、と。
幸田母も微妙なところだが、棋士になれなかったからって子どもたちを貶めたりするわけではなく、居場所を奪うわけでもなく、彼女は彼女で彼女ができる範囲のことをやろうとしているんだから、責めたってしょうがないじゃん、と思うのです。何かに徹底的に取り組んだことがない人はそんなもんじゃん。わからないものをわかれなんて無理じゃん。できないことをやれなんて言えないじゃん。それにだれだって欠点があり失敗をし、それが子育てだったってこともあるじゃないですか。失敗を毒といってしまうのはどうなのかと思うのです。失敗を失敗のまま放置して存在自体なかったことにするとか、成功しそうなのを妬んで失敗させるとかになると毒だなーってなるけど、幸田母は零に理解は示しつつも二人を責めたりはしてないじゃないの。
でもひとによっては場合によっては、なんだろうな。そんな超微妙な立ち位置である。というか最近は随分毒親の意味が拡張されたんだなぁ(皮肉



人生はいつでも挽回できるものだと僕は思っている。自分が完璧でなかったからといって子どもが少し道を間違った時に責められるのは窮屈すぎる世の中だと思う。たしかにクズはクズでいるし、ダメな人はダメな人でいて、それに子どもが鬱々と悩むことは大いにあるよ。あるし、それに同情もするけど、でもそこで終わってちゃダメだと思うんです。しあわせはつかみに行かなければならない。自分に害をなす人間からは距離をおけばいい。しかし害をなすからといって攻撃をしていいわけではない。少し不完全で自分に利がないからといってそれを害だと言ってはいけない。憎みたければ憎めばいい。けれども憎むだけで人生を走りきれるほど人生は短くない。つまりそれは不足を埋められる程度にはながく、失敗を挽回できる程度には余裕があるということだ。
前を見ましょう。歯を食いしばって幸せをつかむんだよ。