シンデレラは削らない

彼女は言う。あんなに頑張っていろんなこと我慢してきたのに、という。僕は彼女の来た道を知っているのでただ口をつぐんでいる。
彼女は言う。あの人ずるいよ、一番最後に来て、一番いいところだけとってくんだ。もともといいもの持ってる人は違うんだね。吐き捨てるようにいうその言葉がなんだか悲しい音を立ててテーブルの上で砕けるのを僕はただ黙って眺める。口元に規則正しい笑みを浮かべて肯定とも否定ともつかない頷きで、僕は言葉を受け取らない。
ねぇ、斧田はさぁ、と彼女は訊く。あの人のことどう思う?

僕はぼんやりと首をかしげる。そうだねぇ、あの人ってうまれもって髪質がいいし肌も荒れにくいみたいだしそういうところいいなぁ、羨ましいなぁ。私の髪の毛ってなんだこんなに扱いにくいんだろうね。でもね、最近ちょっといいシャンプーに変えたら少しましになったよ。
彼女は少しほっとしたように、呆れた顔をつくってため息をつく。いいねぇ、なんていうか斧田はずれてるよねぇ。世間一般と違う次元で生きてるっていうか。僕はちょっと笑う。みんなそれぞれ次元は違うよ、一億人人がいれば一億次元を定義することは可能なんだから。もっと数学的にいえばn個のパラメータがあればn次元の――。彼女が声を立てて笑うから僕もつられて言葉の途中で笑う。


笑いが途切れるころにまた彼女はため息をつく。目を伏せてしばらくじっと固まっているから、手持ち無沙汰で僕は水に口をつけ、ぬるくなってしまったなと考える。ぬるい水は雑味が多いから僕は好きではない。
あのね、と唐突に彼女が言う。私ね、ほら、こぎれいにしてるじゃん、斧田と違って。
ひどいなぁと僕は笑う。こぎれいにはしてるよ、ただちょっとだるだるしてるだけなんだから。冗談だって、と彼女は笑っているとも怒っているともつかない声音で言う。僕は思わず黙り込む。


それに細い方だと思うのね。髪の毛もちゃんときれいにしてるし、斧田みたいにめんどくさいからってのばしっぱなしにはしないし。彼女の口が悪いのはいつものことなので僕はちょっと笑う。口が悪くなる時、彼女は心の奥深くにしまいこんだ悪意や憎悪や嫉妬やそういう見たくないものをつまみ上げようとしていることを僕はよく知っているから、彼女をとがめだてようとは思わなくなる。僕はそれをいつも見ないように蓋をしていつの間にか根が張ってしまっても自然にまかせるままにしている。だから時々自分自身にすらも裏切られるのだ。
整理整頓とかもちゃんとするし、料理だってまぁこれは斧田にはちょっとかなわないかもしんないけどそれなりに丁寧にするし、人当たりもいいと思うのね。生意気なことも言わないし、小難しいこといったりもしないし、ちょっと変な趣味をひけらかしたりもしないし、ケチでもないし金遣いが荒いわけでもない。でもさぁ。
僕は少し身を固くする。その先を耳にするのが怖いと思う。


今までいっぱいいろんなこと我慢してきたよ。確かにこうやってこぎれいにしてるのは嫌いじゃないけど、時々なんか突拍子のないこともしてみたいと思う。誰にでもずけずけとものいってみたりとか、おいしいものを心行くまでむさぼり食ったりとか、そういうの醜いけどでもやらないように気をつけてきたんだ。なのにどうして分かってもらえないんだろう。こんなに頑張ってるのに。
僕は曖昧に笑う。彼女がことばの先を丸めてしまったことを少し残念に思いながらくるくると手の中でグラスを回す。
こぎれいにしてないのも別に楽なわけじゃないよ、と僕は小さな声で答える。肥ってるのだって自分で見てわかるもの、醜いって。自分のことを醜いと思うのはとても辛い。でもさぁ、おいしいもの食べちゃうんだからしょうがないよね。食べたら太るし、動きたくないからって動かなかったらそりゃ太るよ。肥りたくないならいろいろ我慢しなきゃいけないけどそれをしたくないんだから、しょうがない。しょうがないんだよ。アイスもケーキも毎日食べたい。果物もなきゃいやだな。
贅沢だね、と彼女は刺を潜ませて笑う。うん、と僕は頷く。できるだけ邪気のない声になるように注意深く発声する。
シンデレラっているじゃない? メンヘルのさ。メンヘラじゃないよ。そこまで本当は怖くないシンデレラだと、ガラスの靴を履くために意地悪な姉さんとか玉の輿に乗りたい女とかがかかとを削るんだよね。削ってようやく入って、でも血が出てるからばれちゃう。我慢するっていうのはそういうことなんだと思う。削り取って、誰かになろうとして、でもすぐにばれて結局うまくいかない。でも本当はそれでいいんだろうと思うんだ。ちょっと削り取ってその場は上手くいって、次のステージあがったら、また削らなきゃいけないんだから。


彼女は鼻で息をついて、人差し指でグラスの縁を撫でる。
それはさぁ。物憂げな声はさっきより少し柔らかくなっているから僕は視線をすべららせて、うん? と答える。頬杖をついた掌に乗る頭は心なしか重い気がする。
それってさぁ、端的に行っちゃえばありのままの、っていうあれでしょ。斧田ってやっぱ夢見がちだよね。
僕は唇だけで笑って、心の中で呟く。


夢なんて見たいだけ見ればいいんだよ。夢さえも失ったら、削り取った個所が疼いて正気ではいられなくなる。僕はなにかを削り取らずにはいられないんだから。