電話越しの声は疲れている。ノイズが人の声のように紛れ込んできてそのたびに耳を澄ます。君の隣にわだかまる不定形の闇にそうっと手を伸ばす。触れたら。指がためらって、それからそろそろと触れる。生ぬるいお湯のような、寝起きの布団の中のような、かすかなぬくもり、境界面、君と同じ温度。ゆっくりと掌でなぞる。知っているような知らないような、途方にくれた景色の中に埋没していくぬくもり。ゆめかうつつか、そうしてその瞳に映る僕の顔を見つけてため息をつく。夢はもう終わるのだ。疲れているのは僕も同じだ。また、曖昧な日々と細かな雑事の中に埋没していく一日が始まる。時々君を思いながら空を仰ぐ日々が始まる。そして一日の終わりにまどろみの中で君のぬくもりを思い出すのだ。君が何を思うかは知らない。そこまでは見えない。僕の目はそんなによくはない。それでも。そのつづきはことばにならない。静かに息をついて、また君の声に耳を澄ます。


言葉すらも交わすことなくただ空気を共有する。それは焦りにも似ているし諦観が混ざってもいる。深夜。雨の音も聞こえない、ただ空調が静かに唸っているだけの空間の中でぽつんぽつんと人の気配がする。君が疲れていることは知っている。僕が精いっぱいなことを君もまた知っている。何の偶然か、時のいたずらか、なぜこの空間を共有しているのか、それすら僕らには理解できないけれど、でもそこに君がいて僕がいた。それだけだった。言葉はなく、ただ、時折どちらかが立てるキーボードをたたく音が響いているだけだった。君が振り返る音が空気を伝わって、僕が振り返るまでそれは延々と続くのだ。あるいは僕が帰ろうとすればそれが空気を伝わって、君が振り返る。君が振り返って僕がそれに応えて、くだらない話をして、笑って、何も伝わらない、何も得ない、何も投げかけない、それでも積もっていく空気に時間に、親しみだけが増えていく。それはあくまでも現実であり、夢ではなかった。君はそこにいて、手ごたえがあり、投げかければ返ってくるボールはしっかりと僕の掌の中におさまった。僕はそれを知っていた。だから必要な時に必要なだけボールを投げてその返事が返ってくるのを楽しみにしていた。
共有していたのは空気だけだった。このもどかしさが空気を伝わって君に届いたかどうかは知らない。ただ、そこにある空気が共有されていただけにすぎない。そのことを懐かしく思いだすのは一体いつごろになるのだろう。
あの時振り返った君が言わんとして飲み込んだ言葉を僕は知らない。君の何とも言い難い表情を僕は理解できない。ただ僕の胸の中がざわついた以外、何も起きなかった。これからもきっとよっぽどのことがなければ何も起きないだろう。僕らはまた背中合わせで日常に埋没していくのだ、もう空気を共有することもなく。


あの美しい日々はすでに過去になっている。でも、忘れない。