僕の中に美しさの定義がある。毎日いろんな美しさが入れ替わり立ち替わり僕の前に現れる。ビルの窓の外に飾られた観葉植物がライトアップされて、どうろをすこし黄色い色に染めているのを見ながら笑いをこらえていた。その美しさは僕の中で別の美しさにつながっていて、僕はそれを思い出すたびに「かわいい」と思う。
あなたが言ったから。うちのビルのまねをしている。いっそのこと将棋盤にして一日一手ずつの対局を。そうしたらおもしろいのに。突拍子のない話。ただの冗談。でも僕はそれを美しいと思う。そして空に葉を広げる植物をいじらしいと思う。それはおそらく単なるディスプレイでしかなく、誰かの頭の中の「自然」でしかないが、でも美しいと思う。その隣にたたずむ大きな歳をとった欅の木の色が毎日濃くなっていくのもまた美しいと思う。

子どものイノセンスは脆弱だ。子どもはすぐに大人になる。ありふれた子どもが、ありふれた大人になる。私は、いま自分が大人であることが、そんなにいやではない。他人につられてなにかを好きになったり嫌いになったり無理をしたり虚栄心にとらわれたりするのが、そんなにいやではない。でも、大人のくせに二歳児のような目をして、それで平気で社会人をやっているのは、彼のイノセンスとそのためのフィルタがおそろしく強靱だからだと思う。私は彼のイノセンスそのものより、その強靱さを美しいと思った


幸せな偶然の日々は、淡々と続く日常の中に紛れて時々喜びをくれる。例えばその無邪気さが、真摯な姿勢が、照れや恥ずかしさを隠そうとする無様な姿が、そして整然と調ったある世界が、あなたの美しさを維持している。毎日をただ淡々と続けていく努力、かわいらしさを失わない強さ、そしてそれを押し隠し守り続ける弱さ。
僕の中に美しさの定義がある。透き通る都会の空を見上げながら、前髪をかきあげる風に目を細める。明日も世界が美しくあればいいと思う。