彼はとても優秀な開発者で僕はいつもすごいなぁすごいなぁと思っている。もっと話がしたいなぁ、レビューをしてほしいなぁと思っているけど、今のところその機会は与えられていないし、彼は秋で異動になるので、少なくとも数年は僕が彼と一緒に仕事をする可能性はない。僕はそのことにとても落胆し、機会の損失をかなしんでいる。
この間ひょんなことから、初めて買ったパソコンの話になって、彼は大学に入ったときに思い切って高いパソコンを買った、と言った。当時はまだそんなにパソコンって一般的じゃなくて、でも出てないことはなくて、がんばってすごく高いいいやつを買ったんだ。ドライブの容量が20Gだった。20G?当時で?それはすごい。あ、ごめんまちがえた。20M。あぁびっくりした。
うんうん、と彼は何度かうなずいた。彼は情報系の出身だと言うことを僕は知っていたから、大学はいる前からプログラミングとかやっていたんですかと聞いた。彼はううん、とかぶりを振った。
大学入った当時、学科の半分はいわゆるパソコンおたくで、半分はまったく触ったことがないひとたちで、おれは触ったことがないほうだったんだ。だからすごいできねーできねーって感じで、コンプレックスでさ。
僕は心底驚いて、そうなんですかと感嘆交じりに言った。もっとずっと前からやってたのかと思った。でもまぁこの会社に入ってからでも10年はたってるからねぇと彼は答えた。

前も、異動すると言う話を聞いたときも思ったけど、彼はとても前向きな人だ。しんどいことや負荷の高いところへ身を投じても、それを一つ一つクリアしていくことができるし、前のほうがよかったとかやめておけばよかったというようなことを口にしない。誰かを恨んでいるようなことも口にしない。コンプレックスを抱えていても、それをばねにがんばれるのはなぜなんだろう。僕がパソコンに触り始めたのは大学に入るよりずっと前だけど、大学時代はコンプレックスの塊で、でも大して成長もしなかった。彼我の違いはどこにあるんだろう。僕はそういうことを考えながら、すごいとまた言った。彼はちょっと笑った。


五年前、僕が本格的にこの世界に入ったときの気持ちを、あの感覚を、僕はまだ少し覚えている。

生きてちゃいけない人間なんていないよねと思うんだけどでもそう思ってしまうときがある。ここにいていいですかとすら聞けないときがあってぐるぐると思考をまわしながらことばにならないおもいが腹の中に溜まっていく。重い重い気持ちが消えていかずに腹の中に溜まっていく,あの感覚。

今も十分ひどいのかもしれないがおととしは最低の年でちょうどこの時期は底だった。底だったので必修単位は悉く落とした。授業はすべて宇宙語に聞こえた。毎日のようにレポートが出てやらねばならない課題が次々とでてよくわからない言語をこねくり回しながら意味のわからない授業のノートをとった。何もできない気がした。なにをやってもちゃんとできていない気がした。実際に学力もひどいものだったし何を調べればよいかすらわからなかったので手当たり次第に本を借りて買って読んだ。それでもわからなかった。みんなできているのに私だけできないという思いに取り憑かれて毎日毎日泣いた。家に帰って泣きながら本をにらみつけながらキーボードを叩いた。何もわからなかった。
(中略)
毎日毎日毎日毎日ただ焦りと恐怖だけに突き動かされて求めるものは何一つ得られなくてただしんどかった。悪循環だった。

なぜあの状況から脱け出したのかは未だによくわからない。あの頃の詳しい記憶はないけれど,よいことだけはぽつぽつと覚えている。かけてもらった言葉だけはぽつぽつと覚えている。だから同じような状況にいるひとをみると私は言うのだろうと思う。大丈夫ですか?心配です。その言葉は心に響くことをしっているから。

あぁでも、と僕は思う。彼も当時はこんな思いを抱えていたんだろうか。それよりももっと忸怩たる思いの中におぼれて、立ち上がる以外道はなかったのだろうか。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。彼の自己評価が低いことを僕は知っているけれど、その自己評価より彼はずっと聡明で、優秀で、でもひとに優しくて、丁寧で、愛嬌があって、そして前向きなことを知っている。僕は10年後、彼の中にある世界のような整然として美しいその世界を、持つことができるようになるだろうか。少しでも、ほんのかけらだけでもいいから、そういう世界を僕も持つことができるだろうか。