見て見て、と彼ははしゃいだ調子で言い、ポケットから端末を取り出す。ガラスでコーティングされたその向こうに少し斜めになった写真が写っていて、彼は斧田さんの写真みたいになるように一生懸命加工したんだ、でもやってるうちによくわからなくなっちゃった、という。
僕たちは北京にいる。東京からたった四時間で来れる、時差一時間の都市だ。英語はほとんど全く通じない。見慣れないかたちの漢字に囲まれ、予想のできない言葉の応酬を右から左に流してなにをするにも緊張せねばならない。僕は開発エンジニアとして、彼は技術サポートで、それぞれの目的を持って同じ場所に来たのだった。
言葉がわからなくても、多少の治安の問題があっても最低限の生活を維持することはできる。少なくとも僕はそうだ。喋らなくたって全然困らない。だいたい、開発エンジニアはどこの国でも喋りたがらない。文字ベースのほうが反応がいいし、どこでもつかまる。
でも、どこかに食べに行く時はやっぱり仲間が必要だ。一人で入れる店は限られている。知っている言語を喋る人がいるとほっとする。食事が一緒になると、せっかくだし観光に行こうかという話になる。オフであれば、僕は当然写真を撮る。彼はそれを面白がり、もっと撮って、たくさん見せてという。僕が何かを取るたびにプレビューをみせてくれとねだり、無邪気にすごいすごいと言い、それから撮ってみようとなんらかの端末を出す。
多分、彼と僕は興味の範囲が似ている。性格もおそらく似ている。自力で動くのが好きで、電車にはもちろん乗るし、バスに乗るのも楽しめる。一人であれば安全側でない方を選ぶ。でも誰かがいれば相手に合わせて自分の意見は出せない。気を使いすぎてから周りをする。多少芸術に興味があり、多少音楽に興味があり、誰かが好きだというものに耳を傾けるのが比較的好きだ。滑舌はあまりよくなく、よく言葉に詰まる。でも彼と僕は多分決定的に異なっている。声を発するか否かという点で。
様々な表現手法がある中で、僕はあくまでも声を発さない選択肢を選ぶところがある。文字で、写真で、あるいは表情で僕は意思疎通を図ろうとするが、彼は最初に声を発し、他の手段は選ばない。もしかすると、僕も成長過程のどこかで彼のようになる道があったかもしれないと僕は時々思う。でも十年後、彼と同じくらいの歳になる時に僕が同じ道にいるのはどうしても想像ができない。多分僕は声を選ばないだろう。すくなくとも最初の選択肢とはしないはずだ。
同じもの撮ってるのに、おんなじ風に撮れないなぁと彼は残念がり、僕に写真を見せた。ちょっと傾いてるけど後から加工して補正すればいいですよ、と僕は言う。ただ回転方向の補正は効かないから、そこまで言うと彼はもう撮り直しに行き、戻ってきて撮りたいものの説明を始める。ここで蹴鞠してるひとがいてね、それを観光客が見てて、僕はそれを全部聞いてから、視線が蹴鞠をしてる人たちに集まってるから、そこを少し明るくして、後は暗めにするとずいぶん印象が変わりますよ。あと周辺光を落とすとそれっぽくなります。彼は何やらため息をついて一生懸命画面を撫で始める。撫でながら彼は言う。
斧田さんって写真に撮るものみつけたとき、ほんと嬉しそうだからすぐわかるね。それで写真とってる時はすごく真剣だから面白い。しかも撮ったあとに見せてくれるじゃない、なんかよくわからないの見て楽しそうにしてるなぁって思ってたけど、あの写真みたいに周りが見えてるからあんなに楽しそうだったんだってさ、わかってさ、そういうのすごくいいと思う。僕は心中を当てられたようでどきりとするが、平然と写真ってそういうものですよという。