こないだ椅子蹴ったってん、と僕が兄さんと呼んでいる彼は言った。ええええと僕は作業の手を休めて言う。ほんと目を離すと寝てるからなぁと彼はぼやいた。腐ってますからね、と僕も言う。彼は意外そうな顔で僕を見る。
そうかな。そうじゃないですか?もう最近の腐り具合半端ないじゃないですか。来年には辞めてるんじゃないかって心配になる。僕は次の作業の準備に取り掛かりながら答える。兄さんはちょっと笑う。なんか、ほんといつの間に見たり聞いたりしてるんだかわかんないけど、よく観察してるよな。
僕はちょっと意外に思う。そういえば事務のお姉さんに最近疲れてるみたいだけど大丈夫?と聞いたらとても驚かれたんだったってことを思い出す。僕はただ毎日を過ごしているだけなのに、よく見てると言われるたり、なんでわかったのと聞かれるのかたりするのがなぜだかわからない。ただ疲れた顔をしてたから心配になっただけなのに、心がくさくさしているのが分かるから心配してるだけなのに、何か可笑しいのだろうか。
がつんといってやらないとダメなんだ、あいつは。放っておくとどこまでもぬるくなる。とまるでお風呂のお湯のことでも言ってるかのようににいさんは言う。僕はちょっと笑う。でも一応うちの部署には武者修行のつもりで放り込まれたぽいですよ。人事の人が、そういう風に。希望してた部署にいったらどこまでもぬるくなるから、って。へぇ、と彼は驚いた顔をする。でもうちの部署もぬるいですけどね。だれも厳しいことは言わないし。
優しい人たちのことを思う。みんな彼のことは半分あきらめている。半分あきらめながらそれでもどうにか仕事を与えようとしているのに、彼はそれをことごとくできないと言ってやろうとしない。できないことをいつまでもできないままでいいと思っている。失敗したら、だからできないって言ったのにやらせるのが悪いというような態度でへらへらと笑う。みんなどうやって扱ったらいいかわからないから、あぁそうか、じゃぁもうちょっと簡単な仕事を、とアサインする。彼はいつまでたっても成長しないし、もう少しできるようになってほしいというグループの思惑にいつまでも一致しない。僕は彼らの会話を背中で聞きながら、そういう状態を心配している。
一応、Kさんとか、たまに追い詰めてるんだけどな。と兄さんは言った。あの人笑いながら怒るからなぁと僕は言う。うんうんと頷いて、あいつほんとにダメなんだよなぁと口癖のように彼はつぶやいた。
だめなんだよなぁ、どうしようもないんだよなぁ、ぬるいんだよなぁ、ってそういいながら彼はあきらめようとしている。どうしようもないと切り捨てようとしている。そうやって切り捨てて、期待をかけないように自分を変えようとしている。兄さんにもあきらめられてしまったら彼はどうするんだろう、と僕は思う。できないことはやりたくない、しんどいことはしたくない、環境は変えたくない、そうやって彼はせっかく来た話をことごとく断っていて、あとは兄さんがあきらめてしまったら、もう彼を守り、期待する人はいなくなってしまう。みんな彼のことをできないとか能力がないとか、やる気がないとか、そういう風にみなして必要だったら使うけど必要なければあっさり見捨てるだろう。そのとき彼はなんていうんだろう。どうするんだろう。僕は心配しているけれど、でも僕はあきらめてしまっているから、何も言わない。言わない。言えない。
斧田さんはもう普通に仕事してるのにな、と疲れた顔でにいさんはいった。僕はいやいや、と応える。うちのグループに引き抜こうって話もあったのに全然その話進まないし、と言いかける彼の言葉をさえぎって、あ、そうだと膝を打つ。部長さんから面白い話もらったんですよ、これこれ!このメール!なにそれ。うわなにこれ。まじで。ちょっとなにおもちゃかってもらってんの。さらにこんなのも買う予定です。うわなにそれ、ずるい。会社の金で遊ばせてもらってる!いやいや調査ですから。ていうかこういう話ってうちのグループのほうじゃん。一緒に引き抜いてもらってもいいですよ?どうせこのプロジェクト終わってからの仕事決まってないし。
僕は言う。僕と彼の違いはたった一つしかない。できませんという彼、やりますという僕。ただそれだけなのに。