僕の父庫文軒はかつて蠟少香の息子だった。

なお、これは冒頭部ではない。でもこの一文が最も簡潔にこの話の内容を表していると思う。

河・岸 (エクス・リブリス)

河・岸 (エクス・リブリス)

図書館でなんとなく手にとったのは、装丁が素晴らしく良かったからだ。最初の一ページはさして興味を惹かれなかった。次の一ページで、引用した文が出てきた。一旦は本棚に戻して、それからまた手にとった。それから三ページ目をよんで、借りた。今は買おうかと迷っている。
僕は気に入った本は手に入れて何度も読み返すたちだ。そしてそういう本は、どういうわけか最初の一ページには惹かれない。後で何度も読み返せば、その一ページの文言の一から百まで頭の中に写し取ることができるほど好きになるのに、どうして最初は興味を覚えないのか、僕は不思議でしかたがない。
そういえば、大学の図書館にはどういうわけか米文学以外の小説が大量にあったことを思い出す。あんなに豊富な本棚を知っていると、丸善本店の書架には非常にがっかりする。本屋には本がない。本当に本があるのはいつだって図書館だ。なぜ本を売っているはずのところに、本がないのだろう。

ぼくは飛びついたが、掴んだのは父のサンダルだけだった。ぼくは飛びついたが、父の最後の言葉を聞いただけだった。東亮、おれは河の中へ行く。お前は、船を守ってくれ。船団の帰りを待つんだ!
 それは軌跡だった。父は生命の最後の時間を記念ひとくくり合わせることで、巨人となった

読んだらわかる。読んだらわかる。
その絵面はもはやギャグでしかないのに、悲しみ以外のなにものでもない。
読んだらわかる。
漢文特有の歯切れの良さのせいか、まったく悲しみを感じないが、哀しい話である。主人公はただ哀れである。
ちなみに、背表紙のあらすじはほとんど些細なエピソードを集めただけで、まったく本書のことを表していない。そしてそう書く他ない訳者あるいは編集者の意図もよく分かる。とにかく、読めばわかるのだ。



追記:
結局買った。何度読んでも好きなところ

宵闇の中、僕は慧仙を背負って、孫喜明の船へと向かった。
(中略)
異常があるのはぼくの背中だった。行って帰ってきて、ぼくの背中は空っぽになった。少女がもたらした温かさは消えていた。背中はまだ惰性で曲がったまま、目に見えない小さくて柔らかな体を支えている。ぼくの背中は下品だった。異常なほど下品だ。別れてわずか二分足らずで、ぼくの背中はもう少女を懐かしんでいた。

父の干からびたからだが、ぼくの背中に貼り付いている。だが親子の心は、はるか遠く離れていた。父の口は見えず、見えるのは口から吐き出される泡だけだ。医者の医療事故なのか、父の生理的反応なのか、何度か胃腸を全面洗浄したあと、父は断続的に泡を吹くようになった。最初は褐色あるいは薄茶色の泡だったが、その後質が変わり、透明な泡になった。見た目は悪くない。父を背負って波止場についた時、陽光が河面に反射していた。秋の風が父の顔に当たり、口から最後の泡が飛んだ。その泡はまずぼくの肩に落ち、ゆっくりと体の前を転がって行った。僕は、その泡の色の変化を楽しんだ。最初は金色だったものが、虹のように七色の光を放ったのだ。
(中略)
彼らはすぐ、僕の背負っている老人に気づいた。庫文軒が出てきた! 劉親方がそう叫んだあと、三人は一瞬黙り込んだ。そしてすぐ、小声で相談を始めた。ちょっと見に行こう。彼らは父に好奇心を抱いている。しかし、彼らの態度は受け入れがたいものだった。父は稀少動物ではない。どうして、ちょっと見に行く必要があるのか?