工学で最も重い罪は「不正」です

http://griffin.cocolog-nifty.com/lakesidediary/2011/04/post-8a4f.html

カンニングをすると退学処分(自主退学にもさせてもらえないらしい)と脅された日々が懐かしい斧田ですこんばんは。
おいらは計測屋なので「『想定外』として想定される境界値」を見つけるのが仕事ですが、基本的に工学の目指すところは「限界の突破」であって、想定外を作らないということではないと思っている。
というか想定外は必ず起こる。間違いや失敗を必ず犯すように、想定外は必ず起こる。その時にどれだけ他に影響を与えないか、できる限りの安全を確保できるか、というのを見積もるというのはわかるが、最も重い罪とまで書かれてしまうとねー。

リンク先のエントリはあくまでも「仕事としての工学」を指しているので、これはすなわち「運用」の範囲内なんだよなぁと思う。運用というのは非常に限定された世界だ。運用が長期にできる限り故障率を低くして行うために対策は取られ、そして設計される。でもそれって工学の一部ですよ。基本的な営みとしては理論を考え、それを実装し、誤差率を見積もり、計測をして正当性を確かめ、ってのの繰り返しでしょう。誤差率が思っている以上に大きい場合はその誤差率が生じる原因を探って前に戻って、そうやってぐるぐる誤差率を減少させていく。その誤差率をあるとき一挙に小さくする方法を思いつくこともあって、そうやってまた新しい力を得るのです。運用段階になると、そんなぎりぎりのことは考えなくてよくて大体境界値の20%とか30%とかまぁ場合によるけど相当なマージンをとってここまではOKですよって閾値をだすんですよね。
世の中のソフトウェア開発のほとんどが派生開発であるように、世の中のほとんどの工学は「運用」のために使われていますが、本質的な部分はそこではないし、工学に携わってる人なら限界を突破しようとするロマンと言うかなんというかはみんな感じているんじゃなかろうか。とか思った。最近その限界ギリギリのところで運用にだしちゃってる商品ってのもあるきがする(多分ソフトウェアのアップデートが一般的になったためと商品の交換サイクルが昔に比べて短くなったためか。価格も安くなってるしな)が、それはまた別のお話。


ところで話は変わるが、想定外が起こってしまうことを罪だと考えるのは非常に危険であると思う。想定外は起こるものである。人間の想像できる範囲内でしか想定はできないのだから、森羅万象を知り尽くしているわけではない我々が想定外をすべてつぶせるわけがない。我々が考える想定外は想定内の境界値であることを忘れてはいけないのだ。
もしコストなど全く考えなくてよくて、技術的にも全く問題がなかったとして、想定外と考えられることにまですべて対策が取れたとしよう。その技術は万能だ。万能な技術は魔法と変わらない。はずだ。でも想定外のことは予期もしない所から起こる。それこそが想定外だからだ。そして魔法は万能ではなくなる。絶対に大丈夫だと思っていたものに我々は裏切られ、全身でもたれかかっていた引き換えにほんの少しぐらついた足元を支えきれなくなる。その揺らぎはわずかかもしれないが、万全だと考えていたせいで必要以上に怖い思いをする羽目になる。想定外まですべて対処できると考えるのはそういうことに等しい。そして我々は怖い思いをするので、それをそこまでする必要はないのに完全に手放してしまうやもしれない。そしてまた新しい夢のなんとかにすがりつくのかも。リスクは必ずあるものなのに。想定外は必ず起きるものなのに。

技術を魔法にしてはいけない。技術を万全だと思ってはいけない。それを期待し、少しでも失敗した場合にそれを責め立ててはいけない。想定外をないと思いこむことこそが、想定外を視野外に追いやって技術の進歩を止め、ひいては自らの首を絞めることになるからだ。そしてもし、ほんの少しでも失敗した場合のリスクが計り知れないものであるのなら、運用の範囲をきわめて小さく見積もる必要がある。それでも足りないなら、それはまだ手に負えないのだろう。いずれ何らかの技術が限界を突破する日がきたら再び日の目を浴びることになるかもしれないから、捨てる必要はないし、研究はした方がいい。でも危ないなら、制限してやる必要がある。頼りすぎない必要がある。そして代替の手段を考えて行かねばならない。その大体の手段だって万能ではないのだけれど。
魔法は限界に破れる。技術――科学は限界を破る。


まぁ少々理想化しすぎだとは自分でも思ってます。