夜を思う

ご好評頂いたのでちょっと調子に乗って。

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 命の水、と僕はそれを呼んだ。
 白い息を吐きながら夏に焦がれていた僕だったが、実際の夏がやってきた時、僕はほとほと疲れ果てていた。
 西日差し込む部屋は日中窓を締め切っているせいかサウナのように熱く、その熱は零時を過ぎてもまだ部屋の中でぐずぐずと居座っているのだった。換気扇もなく、風の通りも悪い四畳半。嘘みたいなキッチンはやっぱり嘘みたいに高性能で、湯沸し器もないのにお湯が出た。しばらく流し続けていると、これまたやはり嘘みたいに今度は手を切るように冷たい水が出てくる。
 命の水。
 "water to go"というevianの広告のコピーを高校生の僕は「生きてゆくための水」と訳したが、まさに蛇口から溢れ出る水は僕が生きながらえるための貴重な資源だった。
 ぬるま湯になるまでの時間を図りながら野菜を冷やし、つけている方が暑い扇風機のモーターを冷やすために雑巾を絞って、僕は扇風機のボディを拭う。ラジオが静かに音楽を流している。僕は鼻歌を歌いながら、首の周りに濡れたタオルを巻いて試験勉強をする。時折足の裏を水で濡らし、体温を発散させる。だがそれでも汗は流れ落ち、静かに僕の体力を奪い取っていくのだった。
 その頃、僕の部屋に転がり込んできた姉は炭酸水を買ってきては命の洗濯と言って飲んでいた。僕は洗濯をしている暇があるなら服の洗濯と選択をしろ、それよりバイトをしろと思っていたが、それを口に出さなかった。炭酸水なんて贅沢品じゃないか、そう思っていたのだった。
 その日は熱帯夜だっただろうか。六月から続いている局所的熱帯夜のせいで記憶はおぼろげだ。姉はなにをトチ狂ったか私に炭酸水を差し出し、飲む? と言った。僕もきっと多分、頭のネジが緩んでいたのだろう。それを受け取り、グラスとカップを出して炭酸水を注ぎ、更にたっぷりとジンを注いだ。炭酸水の中をゆらゆらと反射率の違う液体が落ちていったのを覚えている。
 命の水。アルコールが入れば、熱帯夜もやり過ごせる。意識を失う用に布団に倒れ込めば、次の朝がやって来るまで僕は目を覚まさずに眠りに落ちることができる。眠りに落ちれば、少なくとも体力は回復する。また長い、暑い、亜熱帯東京を生き抜いていくための体力が。
 カンパイ、と姉は言った。
 乾杯と仕方なく僕は応え、そして一息にそれを煽った。