昔付き合ってた人を事故で亡くしてね、と彼女が言うから僕はなにを言ったらよいかわからなくなって体をこわばらせる。
不思議なもんだよねぇ、と彼女は視線を落したまま口元をゆるめた。忘れるわけないと思ってるけど忘れてっちゃうんだからさ。そうなんだ、と僕は面白みもなにもない相槌を一言だけ打つ。沈黙が降りる。
神社は森閑としていて、雨にぬれた葉をつけた木が重そうに枝を垂らしている。池に泳ぐ鯉はゆっくりと大きな八の字をなぞるばかりで、水面に顔を出すこともない。傘を持つ手を少しだけ上げて、彼女は空を仰いだ。
あぁ、結婚式だ。こんな日に結婚式って大変だね。僕は彼女の視線を追ってあぁ、と同じように声を漏らす。伏し目がちの花嫁がしずしずと渡り廊下を歩いているのが見える。ああいう席ではみな同じ顔に見えるものだな、と僕は心の中で思うけれど口には出さない。
どうしてなくなったの、と天気の話をするように努めて平坦な口調で僕は儀礼的に尋ねた。彼女はちょっと首をかしげて傘を肩にかけ、事故でと端的に答える。そうなんだ、つらいねと僕は呟く。
ハチ公っているじゃない、忠犬の。唐突に彼女が言うから僕は傘を持つ手に力を込めて彼女を振り返る。肩からずり落ちそうになるかばんの紐に手をやって僕は、うんと頷く。雨の日の僕はいつもに増して不自由だ。片手がふさがっているとバランスを保つのが難しくなるからだろう。すぐ帰るからって言ってそのまま事故って帰ってこなかったからさ、しばらくはハチ公みたいな感じだった。彼女は薄い笑いを唇の端に乗せて、花嫁を仰いでいる。暗い本殿の手前に座った二人の背中は少し遠くて、ここからはなにをしているのかははっきりと見えない。
毎日今日は帰ってくるんじゃないかなとか思ったりとかしてね。でも私は犬じゃないから、毎日ずっと待ってることはできなかったみたい。
僕は首を傾けて池の鯉を見下ろした。彼女が待てなかったということがどういうことを意味しているのか、多分それはどうでもいいんだろう。新しく胸がときめく人を見つけたのかもしれないし、帰ってこないと見切りをつけて胸の中にしまい込んだのかもしれない。でも、と僕は思う。
でも私忠犬じゃなくてよかったよ、だってずっと死んじゃったってわかってるのに待ち続けるのはすごくつらいから。あの日はほんと寒くてさ、ずっとその日のまま止まってたとしたらきっと凍え死んでただろうな。私はあんな毛皮は持ってないし、雪の中で死んじゃうのは嫌だし。
僕は同じことを考えていたことを知って言葉を失う。なにを言ったらよいかわからなくなって首を振る。そうだね、そうかもしれないね。忘れていけないのはすごくしんどいもんね。人間でよかった、と僕が言うと彼女はおかしそうに春の日差しのような笑いを漏らして笑った。目に鮮やかなつつじ色の傘を少し傾けて、いたずらっぽく僕を覗き込む。
嘘だよ。
なにが? と尋ねる僕に彼女はゆっくりと首を振る。忠犬だったってこと?
違うよ、死んだ恋人なんていなかったってこと。