祖父の最後の言葉は「まだ我慢せにゃならんのか」だった。救われない人生だったと思う。
- 作者: 永田カビ
- 出版社/メーカー: イースト・プレス
- 発売日: 2016/06/17
- メディア: コミック
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読んだ。
中身そのものについては機能不全家族とかアダルトチルドレンとか毒親とかそういうのの前知識があると割りとするっと入ってくると思う。僕が好きなのはあれだな、世界が広がるシーンだ(風俗の予約をする前のところ)。あの感覚すごくわかる。僕にとってのあれは2013年のパリ行きだった。
うざい自分語りは後回しにしよう。
僕はわりと親の期待に応えるというか親の期待を超えた結果を運良く出せてたというかそういうところがあったのでこの作者ほど激烈な経過は辿らなかったが、随所おまおれである。ただね、読んでて思ったんです。この人にはコンテンツがある。コンテンツがあって世間から認められるものを作る能力もある。だからこういうふうに単著を出せている。ご本人は創作のほうはだめだったと言っているが、でも自分のことならすごいコンテンツに出来てるじゃないですか。ほんとうに羨ましい。
ノンフィクションであろうとフィクションであろうと作品をつくるのは結局のところ自分の偏見の開示だったりフェチの開示だったりとかするもので、そこを赤裸々に書こうとしても色んな所でストップがかかってしまう。正確に言えば自分でストップをかけてしまう。自分の内面をさらけ出すのは恥ずかしいことだし、なにより危険だ。ふつうは隠しているものをさらけ出すと必ず攻撃をされる。他人の内面はおいしい。おもしろい。むさぼって指さして笑っても自分は全然困らない。だから人がたくさん寄ってくる。でもコンテンツが薄めだと、荒らされるだけで人は離れる。せいぜい数週間に一度、数ヶ月に一度程度ある小規模な炎上にしかならない。大規模な炎上になるにはコンテンツ自体に力が必要だ。そしてこの人にはそれがある。それが僕には羨ましい。コンテンツをきちんと演出して、人がおいしいと思うところまで開示して、単著にしましょうと言ってくれる人が見つかるくらいまで育てることのできる能力を併せ持っていることが羨ましい。いや、その能力を身につけるまでには長い時間がかかってるんだよな。時間を書けなきゃ能力は育たないんだ。わかっちゃいるけど羨ましい。
加えていえば、自分を開示するのは思いのほか難しい。Webにあふれている創作を読むと、ああこの人はここで羞恥心に負けたんだなと思うことがよくある。そこをぐん、と突き抜けるのは情熱だったり勢いだったりするので初心者さんは意図せずに開示して敗走する。ある程度手慣れてくると開示せずに切り抜けるテクニックを覚えてしまい、せっかくのコンテンツもあまりおもしろくなくなる。
文章を読むと、それがたとえ異世界ファンタジーでもSFでもあるいはノンフィクションのエッセイでも、著者のどこに防壁があるのかがわかる。防壁がひどく薄い人もいるし、やたら強固な人もいる。見えないように隠すテクニックを持っている人はすごいと思うが、でも人を強力に引き付けるのはやっぱりその壁がなく、やわらかくうつくしいものが丸裸になっている時なのだろう。
自分で書いているともっとよくわかる。書くべきことはわかっているのにどうしても書けない文章がある。頭のなかにはちゃんと見えているのに手が動かない、そこをこえてはいけないと無意識が警告して体が動かなくなるのだ。そんな壁に僕はよく頭をぶつけ、書いて、人前に出すときには消す。消さない時もある。苦しんで書いたところで評価を受けるかどうかは六分四分くらいだろうか。あまり割に合わない。でも僕はやっぱり書きたい側の人間で、そういう人間はのたうち回りながら自分の壁に挑むしかないのだ。
さてここ以降はうざい自分語りなのでたたみます。
途中で随所おまおれと書いたがホントおまおれなのでもうちょっと自分のことを書こうかと思います。ちなみに俺がパリにいったのは29歳のとき、この人が風俗に言ったのは28歳、なんかほんとタイミングまで同じだな…なんなのもう。
いや~ほんとパリ行きを決めた時のこと思い出しましたよ。仕事でボロボロの時期で、ピークは過ぎてたのでGWは休み取れるかな、でも長期休みがあってもなって思ってた29歳の4月。ちなみにそのちょっと前に振られて割と自暴自棄になってたので僕としては珍しく旅にでたい気持ちになっていました。けど高いよなー旅行いっても一人じゃ飯がなぁ、端っこの方をゴキブリみたいにコソコソ歩いて帰ってくる旅なんてなにが楽しいんだ…と思ってたらなんでだかよくわかんないけど見つけちゃったんですよね、短期アパートを。まだAirbnbがはやるまえでカウチサーフィンとかはあったんだけど、英語に自信もなかったし無理って思ってさ。けど短期アパートならひとりじゃん?飯一人で食っててもOKじゃん?しかも冷蔵庫もキッチンも洗濯機もある!そのうえ五日で3万円くらい……行けるんちゃうか、これ。そんな感じでした。あ、あと航空券が往復五万(燃料代別)だったもんだから十五万あればいけてしまう事に気づいたんですね。大変な気づきでした(その前年が残業アンド残業で金が溜まりまくっていたのもある)。
ずっと女子の一人海外旅行なんてなに言われるか…って思いがあったんですよ。ていうか言ってたのはうちの母親なんでありありと声音まで思い描けるんですが、一人で地図見ながら歩いている女性に向かって、一人旅なんてなにが楽しいんだかねぇ、しかも女一人だなんてなにを狙ってるんだかとか声をひそめてひそひそという母親なんで、いつの間にか行動規範になってしまっていたし、僕はとにかく怖かった。でもまぁ死なずに帰ってきました。
それから半年くらいして新年会があって役員とちょっと話をした時に、ずいぶん明るくなったね、なんてことを言われたりした。壁を突破すると人間変わるらしい。多分あれから僕は随分変わっただろう。
ついでにもう少し自分語りです。
いずれ書くいってたやつ。田房永子さんの「母がしんどい」は読んだら絶対に起き上がれなくなる自信があるのでまだ未読です。こっちならまだ大丈夫かなと思って読んだけど無事死亡した。読みながらどんどん体調が悪くなってその後一週間回復しなかった。一週間ですんだのでまだよかったけど「母がしんどい」とかそれ以外の著作を読んだら死ぬかもしれん。劇薬指定しといてほしい。
僕はいわゆる搾取子である。いや、搾取子だった。特に十代後半から二十代前半にかけては苛烈だったと思う。大学に通いながら週七んでバイトをし、月に十数万稼いで兄弟を養っていた。理系で実験やレポートに追われながらよくやったものだと思う。
大学一年生の後期は収入が七万しかなかったが、そのうちの三万は家賃、残りの四万で自分と姉を養っていた。みみっちい貯金をして、長期休みは短期バイトを掛け持ちして稼いで、そして姉に吸い取られた。
アパートを探した時も物件を見に行く労力は僕が担ったが、決めたのは姉だ。姉があそこがいいといったので両親は僕にそこにしなさいといった。僕の意思なんてあの人達にはどうでも良かった。とにかく実家を出たかった僕は*1言われたとおりにした。今でも腹を立てている。
その一年後、彼氏がいることがバレた時も大変だった。母親にボコボコに殴られ、首を絞められて殺されかけ、形態を壊されて部屋に軟禁されて一週間あまり別れろと洗脳されるなんて普通に付き合ってるカップルは考えたりしないだろう。僕だってしなかった。だから尻尾を掴まれてしまったのだと思う。あの時上の妹は僕のことを気持ち悪いといった。男を作るなんて気持ち悪いと薄笑いを浮かべていった。けれどもその半年後には彼氏ができて、それをバレないように取り繕いながら大学のそばで一人暮らしを始めたのだった。
姉も妹も結婚の時には母からの激しい反対に会い、別れるだの別れないだのという修羅場になったらしい。結局ふたりとも押し切ったわけだが、姉は母とは疎遠になり、妹は「家族に反対されている」と今でも言って没交渉らしい。でも待ってほしい。反対したのは母だけだ。一緒にするんじゃない。
そもそも僕は妹のことを許していない。結婚も結婚相手の事もどうでもいいが、自分はあんなことをいったくせに、そんな気持ち悪い人間に養ってもらっていたくせに、そしてのうのうと彼氏を作ったら半同棲みたいな生活をして、そのまま結婚して、さらにそのうえ反対されたなんて周りに吹聴して人を悪者にするなんてなにを考えているんだと思う。
けれどもその二人でさえ、母の前では人間に見える。
母はいわゆるダラ奥だが、自分自身を働き者なのに評価されない可愛そうな人だと思っている。近所の人間はみんな敵で、自分を監視していて、自分を羨ましがっていると信じている。自分は心理学を勉強したから人のことはなんでもわかっている、誰の心も読めるとたぶん本心から思いこんで、周囲を見下している。友達はいない。本人曰く、人を好きになったこともないらしい。
彼女にとって周囲にいる人間は自分を持ち上げるための小道具でしかなく、自分は常に正しく正義で、頭が良く、美人で品行方正で、そして他者は皆自分と同じ考えを持っていると思い込んでいる。文章を読むと必ず間違った解釈をし、言葉の意味を巧妙に変化させ、対話をしているといつの間にか彼女の望む袋小路に追い詰められている。袋小路に追いつめられたら獲物は殴られるしかない。そういう人間だ。
しょっちゅう父と離婚するとわめきちらし、娘たちに母が正しい、母についていくと言わせようとする。父を糾弾させようとする。娘が口ごもると容赦なく殴り、父が全面降伏して離婚問題が下火になると、今度は口ごもったことに関して長い長い詰問と折檻が待っている。二月の寒空の下に薄いブラウスとジャージと裸足で追い出されたことは何度もあるし、近くの国有林に捨てられたこともある。苛烈というだけでなく、自分の思い通りにならなければなにをやってもいいと思っている。彼女は正義だから、正義はなにをしても許されるから、だからそんなことができるのだ。
自慢じゃないが僕はわりといい搾取子だったのではないだろうか。金はつかわないし、すぐ口ごもるから殴る理由も見つけやすい。あんまり運動はできなかったからそのことで延々と詰めることもできるし、そのくせ勉強だけはできたから、立派な母親だという自信を与えてもくれる。娘を東大にいれるというのは母親業をしているとある種のステータスらしく、その称号も手に入れた。一部上場企業にはいって海外に駐在したこともある娘。娘さんは優秀なのねと言ってもらえる。
僕は搾取子で大学を卒業するくらいまでは殴られたり罵倒されたりすることのほうが多かった。大学に入ったくらいから積極的に精神的なケアをするように求められるようになり、そんなこんなするうちに彼女の中ではいつのまにか愛玩子だった上の妹と僕がが入れ替わっていた。彼女から聞く子供時代の話や性格やそういうものが全て入れ替わっている。気持ち悪かった。僕ははっきりと理解した。あれは頭がおかしい。尋常でない。妄想の世界の中で生きている。関わってはいけない。
今年になってから連絡は絶っている。
こういう家庭では父親はたいてい空気みたいなものだが、うちの父も空気である。時々有毒になる空気であるからなおたちが悪い。
父が最初に癌になったのはもう十年くらい前になる。癌は切除して再発もしていないが、化学治療で家系病の肺線維症が悪化して今は酸素吸入器が手放せない父である。余命は幾ばくもない。けれども今年に入ってから一度も連絡を取っていない。前述のとおり母に会いたくないからである。
今年のはじめごろ、母は介護が大変だから父を殺す、父が殺されたくなかったら連絡をよこせというISISの戦士もびっくりするような脅迫メールを夜中に送ってきた(他の兄弟は反応したらしい)。なにも反応しないといかに父の頭がおかしいかとつらつらと書き綴って送ってくる。本当に殺す気などなく、ただ自分に注意を向けるために喚いているだけなのだ。そもそも父には介護は必要ない。料理以外はゆっくりできるし、実際にやっている。掃除も洗濯も母が寝ている間に済ませ、静かに本を読んでいるだけだ。トイレだって風呂だって一人で入れる。
手紙の内容は矛盾だらけ、いいたいのはただ自分がどれだけかわいそうかということだけだった。読んですぐに分かる嘘ばかりのくせに、母は父を病的な嘘つきだという。精神科医も同じことを言ったという。父に説教をしたという。精神科にかかったことがあるならそんなことすぐに嘘だと分かるのに、そんなことを書いてくる。それ以前に僕が精神科にかかった時にあんなに罵倒して主治医は間違っていると喚き散らしたくせに、自分は精神科医のことを信じているようにいる。ただ権威を盾にしているだけじゃないか。病的な嘘つきは母のほうだ。腹が立って仕方がない。
父はかわいそうなのかというと、よくわからない。かわいそうはかわいそうなのだが、本人は未だに妻に恋をしているようなので口を出せない。さんざん罵倒されて自尊心を破壊され、そのせいで次々に胃潰瘍になり、それがきっかけで癌になってもそれでも好きなら、もう誰もなにも言えない。依存なのか共依存なのかももはやわからないけれども、七十になろうかという人間がそれでいいというのだ。なにもしないほうが本人のためだろう。
思えば父方の男はみんなそうだ。とにかく我慢をする。農家の人間がみなそうなのか、それとも分家の人間だからなのか、あるいは祖父が本家の五男坊で我慢することしか教えられなかったから子供もそれをみて育ったのか、僕にはわからない。祖父の最後の言葉は「まだ我慢せにゃならんのか」だった。救われない人生だったと思う。
僕が育ったのはそういう家庭だ。
そういう家庭で育つと十代になるくらいから歪が顕在化するものらしい。僕の場合小学四年生の時に担任にいじめ抜かれたということが契機になり早めに歪が顕在化し、高学年になった時には強迫症の症状が出た。鍵を何回かけても確認してしまう。ガス栓を何度しめても確認してしまう。新しい場所に行くのがしんどくて怖くて、中に入れないなんてこともよくあった。自分の要望も口にできないし、運動が極度にできなくなった。少しでも動けば罰せられると体が思ってしまう。僕の前にある道はとても細くて、少しでも足の置き場所を間違えれば真っ逆さまに落ちて死んでしまうような気がしていた。生きているのがすごく苦しくて、古いTwitterのアカウントを知っている人はわかるとおもうが2007~2009年頃は二言目には死にたいとつぶやいていた。
2008年頃に体中に不調が出て耳鼻科、内科、婦人科とたらい回しにされた挙句精神科にかかった。躁鬱のⅡ型との診断がおりたが、別段僕はなにも変わらなかった。ただ辛いだけだったからだ。僕は普通になりたかった。病気だから仕方がないと言って欲しかったわけではなかった。薬を飲んでも辛さは全く変わらず、うまく眠れなかった。
結局就職して、(学生時代に比べて)あまり働かなくても定収入が得られるようになって、会社の寮に入り、完全に兄弟と離れて母に(なにかが、何か高いものを買ったとかどこかに遊びに行ったとか、楽しんでいるとか)バレるのではないかと恐れる必要がなくなってから、少しずつ生きているのが楽になった。いまだに理由もなく辛くなることもあるし、怖いことはたくさんあって、この間出張でアメリカに行った時なんかは成田空港を使うと母親にバレるのではないかと本気で恐れていた。バカバカしいけれども本当のことだ。テロが起きて死亡したらとか、父が急死したらとか、そういう恐怖でいっぱいな旅だった。けれども僕はその恐怖とのつきあい方を知っている。2013年のパリ行きのあとから、後ろめたさを抱えたまま旅行を楽しむ方法を覚えた。ちょっとした旅行ですら探検をしているような気分になれるならむしろ得ではないか? 僕は思った以上にいろんなことができて、そしていろんなことができない。反省はあるが後悔はない。そういう旅なら楽しめる。
けれども僕はまだ自由ではない。
こんなのを書いてしまうくらい自由ではない。家を買う話はさらに前にすすんでおり、また少し自由になった。人を頼れるようになったし、頼りつつも頼り過ぎないようになった。ぼくもやっとまともな大人になりつつあるのだと思う。だけど、もっと自由になりたい。ふつうになりたいなんて高望みはもうしないから、自由になりたい。
*1:反抗したくてもできなかったわけだが