http://d.hatena.ne.jp/white_cake/20091212/1260608149


時々不思議に思う。

なぜ、男性の中には無意識に「女性は性行為を望まないし本質的には嫌がるものだ」という前提があるのか、と。

「女性は基本的には性行為をしたがらない。故にそうではない女性は女性ではない。だから女性として扱う必要はないし襲われてもしょうがない」
「女性は基本的には性行為をしたがらない。故に女性の曖昧な反応もYESだと捉えて強引に押さなければならない」
「女性は基本的には性行為をしたがらない。故にYESは簡単に反故にされ、男は悪者にされる」


果たして。


有色人種差別というのも同じようなものではなかったか。肌が白くなければ劣っている、だからひどい扱いをされても仕方がない、しても良い、そう考えていた人が少しも糾弾されなかった時代があった。構図としては変わらない。その前提がただしいか間違っているか、それ自体に問題があるわけではないのだ。その前提にしたがって、前提から外れるものはその対象として不的確であるのでどんな扱いをしても構わないという思考が私には理解出来ない。誰かが勝手に作った前提にしたがっていなければ、そこから外れた途端にその人格は、その人の尊厳は、安全は、安心は、確保されないのか。責められても仕方が無いのか。それはなぜなのか。
その前提は誰が作ったのか。
その前提は、本当に正しいのか。


以下は私事である。

なぜ性別があるのか時々わからなくなる。身体的な違い以外ほとんど日常生活では透明な壁のようにしか感じられない性別が、厳格に厳密に鋼の壁のように両者を隔てている。私の中にある男性不信、それは、女性という記号を外れた途端に女性として扱われないどころかひどい扱いを受けることが当然でありかつ受ければ責められる、という自分自身の中に内面化していると恐怖と怯えに他ならない。
私は怖かった。だから彼らに近寄らなかった。話すことすらできなかった。恐怖し、嫌悪し、警戒し、接触を出来る限り絶った。それが私の、唯一できる保身であり、防御であり、いうところの「誤解をされないように気をつける」ということであった。それでも街中に痴漢はいたし、酔っぱらいに絡まれることもあったし、外見が女である以上どんな注意してもリスクから完全に逃れられることはないと私は知った。

それから長い時間をかけて、彼らがいついかなる時も、記号から外れるものに対して苛烈な扱いをするわけではないということを知り、無意識下によく分からない前提があったとしても実際の行動に出るわけでは必ずしもないと知り、すこしずつ自分の中の恐怖から解放されていった。それでも今でも、不信の根は気づかない深いところにしっかりと根を張っていて、時々何も意図していない行動に対してYESなのではないか、と問いかけられると、NOを叩きつけたりする。それは多くの場合誰かを傷つける。傷つけずにはいられない。傷を負った獣がそうするように噛み付くことしかできないのだ。怯えというものは、生命維持に関する恐怖というのはそういう形でしか表出できないのではあるまいか。

男性はこの恐怖を理解しない。病気だとすら言われたことがある。だが、同じような恐怖を抱えて、それとうまく折り合いを付けながら生きている女性を多々見かけるたびに決して特殊なものではないのだと確信する。本質的な、それは嫌悪ではなく恐怖か怯えと言った方がよいのではないだろうか。その恐怖を内面化していない人がいてもいいのだ。いや、おそらくその方が自然なのだ。なのになぜ、性に対して興味を持つことはタブーなのか。あるいは、私には理解し得ないが、男性が性的欲求にあらがうことができず故にそれを嫌悪し一方で神聖化し、その欲求を持たないと規定されている女性を崇めるのか。なぜ性にまつわることを嫌悪しなければならないのか。嫌悪すべきなのか。
疑うべきは、まず自分の心だ。