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なんでかまたこのエントリがお気に入りに上がってきていたので思うところなど。まえもぶくました気がするんだがしてなかったようだ*1。ま、あんまりリンク先とは関係ないんですけども。

僕が自分自身のことを女であると自覚したのは多分幼稚園の時だ。幼稚園のお遊戯で、劇と人形劇となんかもろもろ選択肢が四つほどあってその中から一つ選んで、保護者の前で演技するというお遊戯会があったんだけれども、僕はその時絵が描きたかったのでテープサイダー?*2を選択した。ふたを開けてみると応募者は僕以外は全員男の子。絵を書いてその絵に柄をつけて(洒落か)壁越しにせりふを叫ぶというのだったから余り前に出たくないとか劇とかやりたくねーよと言いがちなあの年頃の男の子たちはこぞってそれを選択したんだろうと思う。実際に保護者にはそれはわりと不人気だった。そりゃ親は子供の顔見に来るからね。子供の絵を見に来るわけじゃない。僕が子供を持って幼稚園のお遊戯会に参観に行ったときに子供がそれを選んでいたとしたら、ちょっとさびしい思いをするだろうということを、今の僕はよくわかる。でもきっと僕の子供ならてーぷさいだーを選ぶだろうな、とも思ったりする。
それを選んだ子供たちはみんな人前に出るのが苦手だった。劇の演目を決める時ももじもじしてどうするどうするとつつきあってるばかりで一向に決まらない中で僕は全く空気を読まずカニ取り合戦…じゃなかった猿蟹合戦!と宣言し、反対票も賛成票もないままなし崩しにそれに決定する――という流れの中で、僕はもじもじしてお互いの顔色をうかがいあっている彼らと、僕の間にあるはっきりとした溝を幼稚園児なりに感じたことを覚えている。でなきゃあれから二十年以上もたってるのに覚えてるなんてことはないだろう。この話は何度かしたことがあると思うがそれくらい印象深かった。
なにが印象深かったのかというのはその時にはよくわからなかったけれども、それからもちょくちょくと気付けば女子一人*3の状況で同じようなことが起きるたびに僕はわけがわからなくなっていった。
彼らはなぜ決定権を持つのを嫌がるのだろう。どうするばかり言って何も決まらないんだろう。決まりかけたところで話を元に戻してしまうんだろう。どうしてどうやって扱ったらいいかわからないという風に遠巻きにこっちを見るんだろう。どうして彼らと僕は違うんだろう。僕ももし彼ら側の人間だったら同じようにもじもじして独りいる女の子になんかは話しかけなかっただろう。僕はそういうタイプだし、自分でもそのことがよくわかっているから男の子に話しかけることなんてできなかった。僕はいつも一人だった。女の子の友達はちゃんといたのに、なぜかグループを作るときは男の子ばかりのところに入ってしまって、一人でぽつんと、黙々と作業をしている。20数年、そういう生活。

二十数年あきもせずにそういう生活を続け、非難されないために口をつぐんだり同調することを覚えた大人になった今なら、彼らが同性同士の目線を気にするが故にはっきりと自分の意思を出せなかったということはよくわかる。彼らはあんなに小さなころから自分自身の性に対して自覚的だった。いや、幼稚園児にもなれば大抵の子供は自分自身の性に対して自覚的になるものなのかもしれない。そういえば人形劇は女の子しかいなかったし、劇ではお姫様役が人気だった。彼らは僕に比べてずっと大人で、ずっと理不尽な社会的規範に縛られていて、僕よりずっとずっと長くそれに対して苦しんでいて、今もまだ苦しみ続けている。僕はと言えば、慣例としてはっきりと意見を口に出すことはやめても、うだうだと決まらない時はいらいらしながら無駄玉を打ちまくり、めんどくさい役回りを押し付けられるということをいまだにやっている。別に男性、女性に関係なくそういうことは起こる。僕は何か言うたびに非難をされたり、とりあえずじゃぁそうするかと動いて期待通りの結果が得られない場合は冷たい目で見られたり、そうされることに対して何かを思うことはやめてしまった。損な役回りだとか、貧乏くじをひいたとか、そう考えるよりも、僕の性格が停滞する空気に口を出さずにはいられないと考えた方が自然だからだ。


世の中の人々は、多くの善良で思慮深い人々は自分の性別に縛られている。社会的な性別による規範にがんじがらめになっている。それはある意味幸せなことだし、集中砲火を浴びる必要がない処世術でもある。彼らはしばしば僕を傷つけるし、僕にめんどうごとを押し付けるし、微妙な立場においやったりする。心をえぐられるたびに僕は彼らを呪うこともあるし、あるいは優しさに救われることもある。僕は何も分かってないという達観と、かわいそうにという憐憫と、どちら側にも入りこめない自分自身に相対する存在としての羨望と、その他言葉にできない幾多もの複雑な感情の中でバランスをとっている。僕はしばしば男性的であり、同時にひどく女性的である。でも僕はなぜだかどちらにも属することができていないという自認がある。それがよいのか悪いのかわからないけれども、ひとつだけ確かなのはどちらにせよ――性的な規範に縛られていても解放されていても、何らかの属性におさまっていてもそうでなかったとしても、あるいは男であっても女であってもそのどちらでもなくても――苦しむことは苦しむし、傷つくこともあるというそれだけだ。その傷つく原因が性別なのはよくあることだ。自分自身の容姿や才能やに傷つくように、自分自身をなす中核に当たる性別で傷つくことが多くあるのは当然だ。何かだったら傷つかないとか、何かだったら傷つくとかなんてそんなことはきっとないだろう。

*1:いつもそんな感じ

*2:正式名称が遠い昔のことなので思い出せない…

*3:けして男好きなわけではなくやりたいと思ったところにはいつも男子しかいない。しかも割と大人しめな子たちばかりで女の子に話しかけられないタイプの集団に紛れ込んでしまう