いつだって悪意を込めて僕のことを醜いというひとがいる可能性はある。僕がその言葉を聞く可能性は低いけれども、どこかで僕は品定めをされていることを知っている。その相手には顔がない。なぜなら、僕が直接言葉を聞くことはあまりないからだ。でも僕は知っている。

高校時代、僕のクラスとその隣のクラスで物理をとっている女子は僕一人だった。僕はいつも一人で、窓際の一番後ろの席でうつむいたり外を眺めたりしながら、ただ無言で授業を聞いていた。あまり授業のうまくない年老いた先生は、生徒が私語をしていても注意しなかったから、僕以外の人たちはしばしば関係ない話をして盛り上がっていた。僕にもその声は届いていて、でも僕はそれをBGM代わりに聞き流していただけだった。
でも聞き流していても、その言葉に悪意があれば心にとげは刺さる。
彼らはしばしば、自分たちのクラスの女子について話していた。
あの子かわいいなぁ、やりたいなぁ。やらせてくれるわけないじゃん、少なくともお前とは。でも考えるだろ?少しは。
そういう会話。僕は聞こえていたけど聞こえていないふりをしていた。物理の教室はいつも少し薄暗くて、机がひんやりと冷たかった。じめじめした空気が外の乾いた空気と混ざり合う窓際の席はいつもまぶしかった。
あいつとか無理だよなー。無理無理、絶対無理。えーそうかなぁ。別にいけるよ。何お前、あのデブ好きなの?まじで?別にそういうんじゃないし。
彼らの顔を僕は思い浮かべられない。どんな表情だったのか、どんなしかめ面をして、どんなにやけた顔をしていたのか、僕にはわからない。ぼくはその顔を見たくなかったし見れなかった。指先でくるくると回すペンを時々取り落とすたびに、乾いた音が教室に響いた。そうすると彼らは少し声を潜めて、でも同じ話を続けるのだ。
あいつ、あの子のことが好きなんだってさ。えーあのブスのどこがいいの。だよなぁ俺もそう思う。ないわー。あれは。
僕は壁になりたかった。僕も、きっと僕のいないところではなんなのあいつっていわれてるんだと思いながら、僕は壁になりたかった。ノートの上に増える幾何学線をなぞりながら僕はそう思っていた。こっちを見ないでほしい、気づかないでほしい。まるで僕がいないみたいに、今、ここで僕のことを話してもいいから、その悪意を醜さを後で想像させないでほしい。壁になりたい。そう切実に思っていた。
やめろよそういうの。かわいそうだろ。なんだよ、別にいいじゃん、本人に向かって言うわけじゃないし。なんなのおまえ、そういうところ感じ悪いよな。別にそういうんじゃ。いいじゃん、女子いないんだし、心の中で考えるのは悪いことじゃないだろ。女子いないって…。
そこで会話が途切れる。壁になりたいと口の中で呪いのように呟きながら、僕は物理の時間なのに数学を解いていた。
きっと。たぶん。それくらいの年ごろの男の子たちなら考えてしまうことなんだろう。中には口が悪い奴もいて、口さがなく品定めをしたり、やれるだのやれないだの言ったりするのだと僕は分かっていた。それに同調しない男子がつまはじきにされたりいじられたりしているのを見るたびに、同調するしかないのだという空気があることも知っていて、その中で同調せねばならない男同士の付き合いのめんどくささもわかっていた。でも、僕は、いたたまれなかった。どこかで僕もきっと、デブだとかブスだとか無理だとか、ないわとか、そういわれながら笑われているのだということが、容易に想像できた。その基準が人によってまちまちであることもわかっていたから絶対にないなどと断言はできなかった。ただ僕ができることは口を閉ざし気配を消すこと以外なかったのだ。それでも誰かは、僕がそこにいることに気付いているし、僕を女だと思っている。
家に遊びに行っていいかとか、部屋見せてよとか、今日泊まりに行くからとか冗談めかして言われるたびに、あほかとか死ねとかふざけんなとかあるいは瓶で殴ったり自転車で轢いたりなどした思い出はそれほど僕にとって大した出来事ではない。それよりもずっと僕が重く引きずったのは教室の片隅でささやかれていた会話だった。悪意を向けられる可能性があることすら知らなければ、僕はそんなに怖がることもなかっただろうけれど、同調せねばならない空気と、口さがない言葉に、逃げ道がないことを僕は知っている。
僕はきっと誰かに品定めされているだろう。どこかで品評されているだろう。ランクをつけられ、性的な視線を向けられているだろう。それが好意であれ悪意であれ、あるいはただ合わせているだけで本心ではないとしても、顔のない「男性」一般に僕は嫌な顔をする。ひどくみにくいと思う。
そういうことを、ドブス写真集というやつの騒動を見ながら思い出した。僕はきっと気持ち悪い笑いを浮かべてごめんなさいすいませんと言いながら逃げる事しかできないだろう。そしてあの物理教室のにおいをまた思い出すのだ。