彼はひどく優しい人だ。誰にでも優しく、そして気を使う人だ。見てくれも悪くなく、立ち居ふるまいも嫌味でなく、ちょっとできすぎてて怖いくらい、と彼女は言う。そして彼女は優しく丁寧にぼかしたアイラインの下で、黒目がちの目をきらりと輝かせる。僕はいやな予感を覚えながらとりあえず相槌を打っている。
でもねぇ私、時々あの人って周りの人のこと人間扱いしてないんじゃないかって思うことがある。なんて言うんだろう、人から預かったものみたいになにもかも扱っている。たとえば、私に対するそれとここに出てるお皿の扱いはそう変わらない。壊したらいけないから粗雑には扱わないけど、心がこもってない、みたいな。感じが、する。
切れ切れに彼女は言って、それからため息に近い呼吸をつく。僕は黙ってその顔を見る。彼女にはどんな表情も必要ないだろうと思うから、最低限のそれさえも浮かべずただその顔を見つめる。そしてようやくバカみたいな言葉をひとつ頭の中で見つけて、のろのろとほとんど義務感のようにそれを口にする。なんで? 僕の手元では淡い二重の影が散り、落ち着いた間接照明が照らし出す机の上にはできたばかりのサラダが手つかずで置かれている。僕はそれを取りたいなと思いながら、箸を指でさすっている。
やぁ、なんていうかねぇ、そんな感じがするって以上は言いようがないよ、と彼女は少し呆れたように言うから、僕は同意を示すべく軽く肩をすくめる。確固たる証拠のない感情を言葉にすることは難しいが、彼女にはそう思うだけのなにか体験があったはずなのだ。だからそう思った。言葉にできないのは、はばかられるからか、それとも本当にわからないからか。どちらとも言えない。
本とか映画でよくあるじゃん、いい人ほど実は心の底から悪い人で――それでしかもイケメンだったりしてさ、なんだかうまく操られてるけど気付いてないんじゃないかって思うことがある。あの人は人を自由に自分の思う通りに操るだけの術を持っている、そしてそのことをちゃんと知ってる。そういうひとなんだろうなぁと。彼女は箸をきっちり机の縁に平行になるように並べながら落ち着いた声で言う。その瞳の中に影が落ちていて、なにを見ているのかまでは判然としない。僕は軽く息を吐いて、ようやくサラダに手を伸ばす。
彼が、その彼を僕は知らないからなんということはできないけれど、彼と対面した時に僕が彼女のように思うかどうかはわからない。どちらかといえば全く逆のことを思うだろう。彼女が気付かないうちにさっと視線を走らせ、彼女が笑うタイミングをつぶさに見極めようとするまなざしを僕はたぶん知っている。思う通りに動かしているのではなく、誰かの不愉快の原因になることを必要以上に恐れ、怯えているがために、すべての人の顔色をうかがい、それを素早くキャッチアップし、すぐさま行動に移す人がいることを僕は知っている。彼はそうでなければ生きていけなかったのかもしれない。
そういう世界があるのだ。無邪気な人々は知らない、悪意だけが満ちている世界が。時々刻々と変わっていく規則性のない感情を見極め、そして「かれ」あるいは「かのじょ」の気持ちを逆なでしないように生きていかねばならなかった少年が、そう少なくなくこの現代には生きている。感情は笑顔の下に塗りこめ、隙は可能な限り腹の底に隠し、いつも周囲に十全に気を配っている彼は自分自身のことを許しているだろうか。許せているだろうか。
だというのに、その苦労を、苦悶を知らず、彼を優しいという人もいる、いい人だと思うけど信用できないという人もいる、あるいは彼をきっと悪人なんだろう、人を人として扱うことを知らないのだと、悪辣に言う人もいる。なにもかも持っていて人を操る魅力があるから、人の心がわからないのだ、としたり顔で語る人がいる。僕はその無邪気さを憎む。憎むことしかできない。彼と傷をなめ合うことはできないことは知っているから。
彼女に小皿を促し、僕は彼女が嫌いないくらをトングでよけながら、そんな憎しみを全く押し隠して軽く息を漏らす。ねぇ、それってさぁ、気になってるってことなんじゃないの。彼女はちょっと笑って頬杖をつく。もっと直戴に言えば好きだってことだね。彼女はますますおかしそうに顔を歪める。だから、彼の思う通りに操られているかもしれないってのが怖いんだよ。好きになってほしいから。
長い沈黙の末、彼女はわからない、と一言だけ呟く。僕はいくらを一粒ずつ箸でつまんで口の中に放り込みながら、彼は彼女の無邪気さに憎しみを抱くのだろうかと考えている。憎しみを抱くようになれば、きっと自分のことも許せるようになるのに、と。