明治と写真と戦争 -6

しばらく休載しておりましたが(してたのかよ)、ようやく日露戦争の話でございます国際情勢やばめだけどそんなのかんけーねーので普通にお送りします。はい。

俺、日露戦争って与謝野晶子の歌しかならった記憶がないのだが、今回調べたらすごくいっぱい手記は出てくるわ写真は出てくるわ田山花袋はおもしろいわ写真は花盛りだわでほんとうに面白いです。もうちょっと歴史でならえればいいのになー。第二次世界大戦ばっかりだったわ。まぁ平和教育受けてたのでしょうがないんだが…

 顧ると、老虎山上の月、これほまたこの戦争の修羅の巷の上に超然と達観しておるかのごとく蒼い白いさびしい光を投げて、このひと月との間に、次第にくれてゆく戦後の天地、山は深紫より暗黒に、海は深碧より暗碧に、夕日は既に半ば海波に没して、その附近にまばゆい美しい金属製の器皿(さら)の閃きかと思われる光を漲らしていたが――。
 不意に漠然たる響!
 皆な愕然とした。
 何等の相関、敵は敗走に際し、その大房身の火薬庫を爆発せしめたので、半ば暮れ渡りたる空に俄かに高く揚りたる一道の火光、何の事は無いちょうどそれが旭日旗を掲げたように燃え上って、あれよと見る間に、それが愈々高く高く、続いてなお下より燃え上がる火光を見たが、その間役二三分ばかり、やがて火光は低く低くなつて、ついには二三十間ばかりの高さになってしまう。

田山花袋「第二軍従征日記」5月26日 南山の戦いで敵が敗走する場面



しかしそれにしてもどうしてここまで次から次へと風景描写ができるのか。田山花袋ってわりとべったりしたしつこい描写をする人だと思っていたが、気分が乗ってくるとこうなる模様。しかし南山の戦いのあたりは読んでて確かに手に汗を握りますね。もうダメだ…と思ったら援軍が来てあっという間に形勢逆転して、敵が敗走するだけど、最期に露軍が火薬庫に火をつけて大爆発をおこすんですよ。御大曰く「バクハツもある!」である。

ま、いきなり南山の戦いとか言っても義務教育の歴史では習わないと思うので日露戦争のおさらいをしましょう。
ちなみに日清戦争適当に書いたのは日清戦争に興味がないからです。まーほっといても清は滅んだんだろうけども、日本も勇すぎな感じがあるよね、あの戦争。とりあえずいっとくか、みたいな感じで行ってるし。まぁその二十年前まで内戦やってたしその前は外国人相手に無茶してうっかり英国艦隊の司令官やっつけちゃったりしてるうえに、当時はまだ中華思想があったはずなので多分強くなったから当然!みたいな感じでいったっぽいけども。当時の価値観だししょーがないわなー

日露戦争の歩み

日露戦争は1904年に開戦だが、きっかけはその前に日清戦争をやってしまったから。とはいえ清は国力弱ってたし遅かれ早かれ打倒されただろうので、時期は違えどいずれ同じことになってたんだろうなぁ。でもそしたら児玉*1がいないから旅順は落とせなかったんだろうか…?

  • 日清戦争で清が分割されまくる→しかし日本はそんなに領土もらえなかった(三国干渉)ので激おこ
  • 中国人は清が弱り始めたのでいつもの通り新しい勢力が台頭(義和団というキリスト系の団体)
  • 清は一応生き残っていたが欧米列強から国内ちゃんとしろといわれ、袁世凱義和団を弾圧
  • だいたい中国つうのは勢力側がこういうことすると反対勢力は大いに発奮するのでますます義和団が強くなる
  • 義和団が清に駐在している列強に宣戦布告(一応清は宣戦布告されておらず「扶清滅洋」というスローガンで戦ってる。意味はよくわからんが多分尊皇攘夷と同じだ)
  • 義和団事件
  • 列強がみんなで対応したんだけど、近いので日本とロシアからいっぱい派兵される→ついでにアムール川の流血やに歌われるようなことをしでかすおそロシア。
  • で、武器の違いとか近代化した軍隊の違いとかで、清はボロ負け。その前の日清戦争も軍隊が近代化できてなくてあっさり負けたのでしょうがないっちゃしょうがない。
  • 北京陥落後に清政府が一緒に戦ったはずの義和団を反乱軍といったので義和団激おこ、掃清滅洋(清も滅ぼすし、西洋も追い出すという意味。戦国時代に突入…にはならなくて列強がじゃまをするのであった)へ
  • ただまぁ連合軍がいるのでまだ清は生きながらえていた
  • で、いっぱい兵を派遣したロシアが、南下政策とりたかったしついでだからということで満州に居座る
  • でてけよと日本が再三言うが出て行かない→日本激おこ
  • 日露戦争開戦
  • 五月から一軍が朝鮮半島から北上、鴨緑江の戦いで快勝。時期をずらして二軍(と大本営)が遼東半島から上陸、金山、南山のたたかいで辛勝、同じくらいに独立第十師団(後の第四軍)が大弧山から上陸
    • ちなみに上陸に関しては海軍が行って敵片付けてから、陸軍が上陸。従征日記とかみてても海軍の方が練度は高い模様。つうか陸軍は遠足か、というくらい呑気。まぁやるときゃやりますけどね。いややってないな。
  • 旅順攻略はすぐ終わるだろうとおもって退役してた乃木大将ひっぱりだして第三軍まかせてたらなかなか攻略できない(世界で初の塹壕戦のため苦戦)
  • 遼陽でロシア軍と総力戦、結構苦戦するけどクロパトキンがとにかく退却する人だった+ロシア軍の騎兵が近代戦では使えないことがわかってしまったなどしてなんとか占領
  • あんまりにもクロパトキンが退却ばっかりするのでロシアが別の将軍おくりこんだら沙河挟んでにらみ合いすることになった。日本もロシアも補給ギリギリな感じで半年粘る(超寒いので凍ったうんことかなげてた)→旅順がついに落ちる
  • 黒溝台でロシアが仕掛けてくるがなんとか日本が勝つ
  • ロシア奉天まで退却→10日くらい総力戦やって日本が辛勝、ロシアも革命が起こり始め兵士の士気だだ下がり(物資は来ねぇし退却続きだし)で脱走兵が出まくり軍として成り立たなくなる。日本側も兵站が限界だし士気は下がってるし一軍と二軍の損傷が激しい(一軍は黒木が突っ込み過ぎである)ので兵力もぎりぎりむしろ将校が足りない
  • 旅順攻略したので海軍が元気になって海戦で勝つ
  • お前ら講和したら?とルーズベルト(米大統領)がいったので日本は賛成、ロシアも渋々賛成
  • で、1905年の9月に日露戦争集結
  • 12月に満州司令部解散


遼陽まではわりと元気なんですけど、沙河会戦後にらみ合いの時期で両者疲れたみたいで、結構テンション下がってる感じ。一番最初に当たるべき坂の上の雲よんでないのであれなんですが!はいからさんなら読んだよ。


で、そんなかで大本営写真班は四月に出来たとか五月に結成したとかいろいろありますが、そのくらいにでき、二軍と一緒におそらく上陸したもよう。一軍はまにあわなかったので兵站の部に雇われてる米商人にカメラ持たせて(というか込め商人の中に写真師がいたのか?)撮らせていたようだ。しかし結構黒木大将が動きの激しい人なので、そんなに写真が残ってない。残念。8月入ったくらいには大本営写真班が合流した様子。

二軍に関してはもともと三師団が所属していて大所帯だったこともあるのか私設写真班(田山花袋とか)と大本営写真班がずっと一緒に行動している。
ちなみに小倉班長だが営口のホテルに泊り西洋料理を堪能した翌々日

今朝聞くと、軍司令部は昨日橋台舗(きょうたいほ)を前進して、今日は他山浦(たさんほ)と言う所に進むとのこと。「海上にも戦争があらうが、それを見ぬのは実に遺憾だ」「いや、どうしても朝の中にかえらなければならぬ」と、大本営の小倉君(注.田山花袋は小倉さんより10くらい年下です)は買い集めた種板やら麦酒やら種々なる物を騾車につけて、ずんずん先に出発してしまった。

連れてってやれよw一人で帰るなよwwしかもしっかりビールとか持って帰んなしww
写真班は雇員だったけどわりと将校とかに近くて良い暮らしをしていたようです。まぁその代わり戦場では大変ですけどね。四切暗函持って走り回るから…

ほいで第三軍はどうせすぐ終わるだろうと最初ほったらかしていたが、長引いてきたのでベテラン写真師の大塚さんが派遣され、その後、年をまたいでそこにいたという…

で、なぞなのが第四軍(独立第十師団)で、一番最後に上陸しているので写真班の誰かがずっとついててもおかしくないのにあんまり写真がない。一応小川写真館から写真帖は出ているんだが、めざましい戦果がないせいなのか…?野津大将は有力株だったんだが、兵力をあまり消耗したくなくて突撃命令出さなかったからそんなに戦場写真らしい戦場写真はなかったということなのかもしれない。そのかわり多分測量部が撮るような写真がおおかったのか、な?今探していますがちょっと詳細は不明。


あとは各国から新聞記者が取材に来て、丘の上に座って戦闘を見物しているなんてこともあったようだ。
日露戦争戦時国際法を遵守した(WW1とかWW2とかはどこの国も遵守してない)*2戦争だったせいか、記者はどっち側の陣営にも取材に行って写真を撮っている、という…すげーなー。結構休戦中は日露兵は仲良くしていたようで、それも戦争後半でロシア軍が大量に投降した原因なのかもしらんすね。
しかし下士官(軍曹も?)捕虜の扱いは聞かされていなかったらしく

余の中隊に居る某上等兵は二名の兵を率いて右側斥候となって山腹を進んでいると、如何なることか一人の露兵が谷川の底に屈んでいた。我斥候は銃を擬して飛びかかると敵は持った銃を投出し、腰から縄を取出して我斥候に渡した。そこで我斥候は、其敵を後ろ手に縛りあげたまま、中隊の前につれて来た。
之が初陣であった。余等の隊は縦隊となって、谷間を北へ北へと前進する。最先頭の部隊は散兵となったり、又縦隊となったりして進んでいる。時々小銃声が、パチパチしている。
よく見ると我兵の如き小兵ではない。彼の身長は我兵より遙に高い、顔は薄赤で白い。
青味のある目玉で、無言のまま平気の顔で、余等を見つめている。この敵は大兵肥満の歩兵で長靴をはいている。このような大男の敵と格闘するには中々骨の折れる事と思った。
斥候長
「中隊長殿、敵を一人捕虜にしました」
中隊長
「アー捕虜を得たか、お手柄お手柄、然し捕虜を縄にかけてはならぬ直ぐ解いてやれ」
「アーそうですか、捕虜はくくることはならぬのですか」
と云いつつ斥候の一人が縛りをといてやった。捕虜は、やれやれと云った様な態度で両腕をさすっていた。そして此の捕虜は我兵が後送した。

長畑 亀太郎「日露戦争従軍記」



まぁ中隊長は士官学校出てるのでちゃんと戦時国際法は知っていたんだろうが、再召集の後備兵が知らないというのは???三年間いるのにそういう教育はしなかったのかなー。しかしやれやれじゃねぇぞw

ちなみにこの人の手記は面白いので下のほうで引用する。

ちなみに戦争の最初のころは日本側はあんまり取材をさせたがらず、米国の記者が本国に取材させてくれない、こいつらきっと悪いことしてるんだ、わーん!と泣きついたので、しょーがねーなと解禁した模様。ここらへん、この時代の人は外交力あるなと思う。

おもしろい日露戦争手記

「サア」練兵と言えば、ボウバナの停車場の敷地に行って、右向け、左向け、全体止まれと、各個教練を始めた。子供のあるお父さんが、ボンヤリして右向けに左向くものもあった。何分多くの兵士が練兵するのであるからさしもの練兵場も所狭く、此の敷地も彼の原野もこの川原も残らず兵士の訓練場となって了った。

お父さんがってw

 兵士は整々堂々と四列縦隊で行進する。並居る学生児童は帽子や国旗を打ち振り、一般の見送り人は之に和して、
『万歳、万歳』
の声は天地を震撼させた。
(中略)
「随分御機嫌よう、留守のことは心配あるな」「内のことを頼むぞよ」
と戦友に遠慮あり勝ちな挨拶が交されている。時間は許さない。号音一声、此処を出た。此出発に際して、最も悲惨な事が出来た。
 それは営庭に集合このかた僅か二三時間の内に三百名の患者を出したことである。
 此悲惨事は朝の朝食が原因で腹痛を感じて吐瀉するのだ。最初営庭に整列中から二三の患者を出した。行く行く其数を増して停車場の敷地では、実に多数に上った。顔色蒼白となり、銃を杖につき、背嚢や弾薬盒を枕に仆るものが多い。

なんか晴れ晴れしく出発したかと思ったら食中毒で次から次に倒れるとかコントか! しかも当時なので死人が出たりもするのに(実際に二、三人なくなった模様)まったく…どういうこっちゃ。ちなみにこれ独立第十師団です。

附馬営の我陣地前を、辮髪を垂れて笠を深く被った土人が揃いも揃って三人ながら、三尺もある長い煙管を口にして煙草を吹かせながら、近寄ってくる。
(中略)
我兵は近寄った。彼はまずい支那語で、「チャンコロだー」
と云う。よくよく見れば、服装こそ支那人なるも、かくすことの出来ないのは赤い鬚に目玉の碧色。

おい!ロシア人!手段を選べ!絶対バレるだろうがwwちなみに奉天のあとも同じことやってる。学習しろやw投降の一つの手段だったのだろうか?



遼陽占領後の一幕

この内にいる六十余りの老母は腰に、十七歳位の娘は右足に小銃弾の負傷をしている。之は彼我交戦中弾丸が三間余の城壁を越へ城内の市街へ飛び込んだものである。誠に支那人にとっては不慮の災難で気の毒なことである。この二人の婦人は助けを求むるので、我兵は親切に包帯をしてやったり薬を飲ませたりした。中には正露丸を与えていたものもあった。

小銃弾の負傷で正露丸のんでも便秘になるだけですやん…当時の医療事情が忍ばれる。多分なんにでも効くと思ってたんだろうなぁ。



沙河会戦、その後の膠着状態

「うーらー」と天地を震撼さす喊声が上る。「敵の吶喊です」とある兵が云う。すると如何なることか二、三の兵が立ち上った。中隊長は大喝一声「馬鹿」と云った。立ち上った兵は何れも伏射に返った。

練度がやばいレベル

暗夜の戦は難儀なものである。部下の掌握に非常に困った。敵弾雨飛の中にあって順序正しく散開することは出来なかった。
又兵の中には暗さに紛れて後方へ残るような、づるいやつも、たまにはあった。
敵の吶喊を聞くと、命令もないのに、伏射の兵が立ち上ったのもあったが、是は、まさか号令もないのに敵中へ飛込む都合でもなかっただろう。
確かに狼狽したに相違はなかった。尤も三ヶ月教育の兵士もあったから、かような奴が千人に一人や二人は止むを得ないが、兵士の精神訓練の足らざるを痛感した。

夜襲中に敵前逃亡(逃げてはないが)とか、あわてて立っちゃうとかやっぱり練度がやばいレベル。


その後膠着状態のまま冬突入。
ほのぼのばなし。

彼我の対陣の中間に、一つの小高い森があった。昼は其森へ露兵の展望哨が出る。夜間は同じ森へ味方の下士哨が出ていた。或日我下士哨は、日没頃其森へ出張して見ると、意外にも「ウイスキー」が一本置いてあった。之に露語の書面がついている。我兵は之は珍しい敵からの土産と喜び持って帰った。そして露語の通訳官に見て貰ったら、日本兵に贈ると書いてあるとのこと。そこで我が下士哨も葡萄酒を持参して同じように手紙を添えて送ったこともあった。下士哨がその森の近くに行くと、先方が引揚げて帰るのを見たこともあったと云う。何れ敵も吾兵を見送ったこともあろう。この時だけは、互いに射撃を遠慮したようであった。露兵からの手紙は、
親愛する日本兵よ、日本兵よ、と云うような文章の書きぶりであったことも今に記憶している。

五日より七日に至る間、僅かの散兵壕に入って、悪戦苦闘をしていると、困ったことは糞尿の始末であった。如何に生死の修羅場でも、はずむ糞尿は少しも遠慮しない。
(中略)
それより難儀な事は大便であった。人と並んで脱糞するのは気持のよいものではない。それかと云って、壕より匍い出てやると敵弾が飛んで来る。脱糞中の戦死は名誉でもなし仕方がないから、
「こら両方の兵は少しここをあ窖けてくれ」
と云って新聞紙や其他の反古を敷いて大便をやる。傍の兵は
「こら臭いぞ」
と云う。
(中略)
この糞は土産物を包んだようにして、
「之を食え」
と云って敵の方へ投げ出すのであった。あとで手を洗はなければならぬ、その水はない。
水筒の水は命を救う大切な水、そんな余裕はちっともない。
同じ手で銃を執り、パンをかじり、土を掘り、糞を投げると云う有様であった。

これ書いた人尋常小学校の先生だったらしいんだが、小学生がよく笑ったそうです。つうか文章がおかしくていちいち笑う。まーでもしょうがないよなぁ。戦争映画ではこういうのないけど絶対どこもやってるんだろう。特に塹壕戦のWW1とかひどそう。


田山花袋については明日にしようかな…もうちょっと写真の話が出てくるので。こっちもいろいろ笑ったりしんみりしたりする。さすがに作家なので文章がうまいしなぁ。

*1:児玉かっこいい

*2:遵守したとはいえどこにでも悪い奴はいるもので悪いことをするのはいたはいた。まぁそれよりも深刻なのはたぶん軍隊の性質上上官の命令が絶対+下士官以下の報告が微妙→結果柔軟性がまったくなくなり倫理観とかよりも命令絶対になってしまっていることかな。まだ上官が洒落のわかる人だといいんだが、そうでないと悲惨なことになる